「どれにしようかなぁ」

 

 

そう呟きながら祐巳は部屋の中を行ったり来たり

広大の部屋の中には祐巳の背丈より倍以上も高い本棚がずらりと並んでいる

忙しなく動き回っては本棚の向こう側に消えたり、ひょっこり出てきたりする祐巳

その様子を清子は微笑ましい目で見ていた

 

夕食も済んでほっと一息ついていた時の事だった

リビングでお茶を飲んでいた清子に祐巳が唐突にお願いしたのである

お母さま、ご本を読んで、と

祐巳のお願いなら何よりも最優先な清子にもちろん断る理由も無く

そして清子は祐巳を連れて、小笠原邸の図書室へと足を向けたのであった

 

 

「はい祐巳ちゃん、好きなの選んで良いわよ」

 

 

清子はそう言ったがここは何と言っても伝統ある天下の小笠原家

その蔵書量もハンパではない

思わず見上げてしまう程の本棚がずらりと並ぶその光景はどこかの図書館かと見間違う程だった

とりあえず祐巳は清子と一緒に児童向けの絵本が収められている一画を中心に探していたけれど

しかし膨大な量の本の前に、優柔不断な祐巳はどれにしようかずっと決めあぐねていた

 

 

「あ、祐巳ちゃん、あれなんてどうかしら。くまのプー太郎さん」

 

 

「ん〜・・・もうちょっとさがしてみる」

 

 

ずっとこんな調子でかれこれ1時間

しかしそんな時間の流れも清子は気にならなかった

祐巳と一緒なら本を探すという作業も清子は楽しいからだ

 

 

「あとは、そうねぇ・・・・・・・・・あら?」

 

 

途中、一冊の本が清子の目に止まった

 

 

「おかあさま、どうしたの?」

 

 

祐巳は清子を不思議そうな目で見上げる

清子は一冊の本を手にとって、一心にそれを見つめていた

懐かしそうな顔で、まるで何か一生懸命に記憶を引っ張り出しているような

そんな様子だった

 

 

「・・・おかあさま?」

 

 

くい、と服を引っ張られてようやく清子は現実に意識を向ける

 

 

「ああ、ごめんなさいね、祐巳ちゃん。懐かしかったものだから、つい」

 

 

そう言って清子は本の表紙を祐巳に見せた

漢字で書かれた本のタイトルに祐巳は難しそうに眉根を寄せる

 

 

「・・・・・・?なんてかいてあるの?」

 

 

「枕草子」

 

 

「まくらのそうし?」

 

 

「そう。日本の有名な古典ね。ちょっとこの本見てたら、学生時代を思い出しちゃって」

 

 

言いながら清子は近くにあった椅子に腰を下ろした

清子が手招きをすると、祐巳は嬉しそうに駆け寄ってちょこんと清子の膝の上に収まった

 

 

「祐巳ちゃん、お母さまの昔話だけど、聞いてくれる?」

 

 

うん、と祐巳は頷いた

清子はにこりと柔和な笑みを浮かべ、過去を懐かしむような表情で語り始める

 

 

「・・・あれは確か、私が高等部3年生の時だったかしら」

 

 

まるで子供に絵本を読み聞かせる時のような、穏やかな口調だった

 

 

「学校の図書館でね、枕草子を借りたの。表紙の色はうす紫色で、

ちょっと上品な感じだったわ。大きさは、そうね、枕にすると丁度良いくらい」

 

 

それは清子の実体験に基づくものだった

学園にある温室で、実際に借りた本を枕にして眠っていた清子

なかなか快適だったわ、と清子は悪戯っぽく言った

 

 

「でも私、その本を無くしてしまったの。図書館からの借り物なのに」

 

 

「おかあさま、うっかりさん」

 

 

「ふふ、そうね。私って結構うっかりさんだったと思うわ。薔薇さまだったのにね」

 

 

祐巳ちゃんと一緒ね、と清子は小さく呟いた

清子と祐巳は視線を合わせると、可笑しそうに笑い合った

 

 

「それで、そのほん、どうなったの?」

 

 

「そうそう、その本だけどね、下級生の子が届けに来てくれたのよ。

私ったら、枕にしたまま温室に置いてきてしまったみたいで」

 

 

それでね、と清子は言葉を間に挟んだ

 

 

「さっき枕草子を見つけたとき、その下級生の子の事を思い出したの。

本当に唐突だけどね。卒業して今に至るまで、思い出した事なんて殆どなかったのに」

 

 

どうしてかしら、と清子は不思議そうに呟いた

 

 

「ふーん・・・・・・ね、なんていうひと?」

 

 

「名前は・・・・・・忘れてしまったわ。でも、顔とか雰囲気は、何となく覚えてる」

 

 

清子は上から祐巳の顔を覗き込んだ

 

 

「そうね、祐巳ちゃんみたいな子だったわ」

 

 

「わたし?」

 

 

「そう。雰囲気とか、そっくり」

 

 

清子はにっこり微笑んで頷いた

目の前の祐巳と記憶の中の下級生の面影が、どこかだぶって見えた

 

 

「それで、そのひととは、どうなったの?」

 

 

「その後はね、その子にサインして下さいってお願いされたわ。

妹にしてくださいとも言われたけど、私にはもう妹がいたから」

 

 

「そのあとは?」

 

 

清子は苦笑しながら、首を横に振った

 

 

「その子とはそれっきり。・・・でも、何だか印象深い子だったわね」

 

 

清子は顔を上げて、どこか遠くを見るような眼差しで窓の外へと視線を向ける

漆黒の空に、下級生に差し出された本にサインをした時の場面が浮かんで見えた

当時の思い出が一気に押し寄せてきて、清子の心を満たしていった

 

 

「・・・今頃、何をしているのかしら。結婚して、子供を産んで・・・・・・幸せに暮らしていると良いわね」

 

 

「おかあさま」

 

 

「あら、何?祐巳ちゃん」

 

 

「このほん、よんで」

 

 

そう言って祐巳が清子に手渡したのは、枕草子だった

 

 

「この本で良いの?ちょっと祐巳ちゃんには難しいかもしれないわよ」

 

 

うん、それでもいい、と祐巳は頷いてみせた

 

 

「おかあさまに、よんでもらいたいの」

 

 

「わかったわ。祐巳ちゃんがそう言うなら」

 

 

清子は目を細めて優しく微笑んだ

慈愛に満ちた清子のそれは、母親が子供に向けるものと何ら変わりは無かった

膝に乗せている祐巳に見えるように本を開いて、清子はゆっくりと朗読を始める

 

 

 

「春はあけぼの。ようよう白くなりゆくは・・・」

 

 

 

どこか懐かしい響きのする旋律に、祐巳はじっと耳を傾けていた

内容は判らなかったけれど祐巳はそれでも良かった

不思議と、胸の中が温かいもので満たされていくような気がしたから

 

 

清子の朗読は優しく静かに、祐巳を夢の世界へと誘っていく

その先で祐巳が見たのは、昔と少しも変わらない優しい眼差しを向けてくれる、母親の笑顔だった

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