「じゃあ、おねえさま、いってきます」

 

 

「ええ、気をつけて行ってらっしゃい、祐巳・・・うっ、げほ、げほ・・・」

 

 

「・・・おねえさま、だいじょうぶ?」

 

 

ベッドに横たわり苦しそうに咳き込む祥子の顔を、祐巳は心配そうに覗き込んだ

いつもだったら祥子と一緒に登校する時間なんだけど

しかし風邪を引いてしまった祥子は、今日は学校を休む事になっていた

 

 

「大丈夫よ祐巳、大丈夫・・・・・・でも、早く帰ってきて頂戴ね」

 

 

弱々しく呟くその姿はあまりにも祥子には似つかわしくなかった

部屋を出る前に祐巳はもう一度振り返って祥子の顔を見る

本人も周りの人間も大丈夫だと言うが、やはり心配で仕方が無い祐巳であった

 

部屋の扉を開けて廊下に出ると、祐巳を待っていた融が笑顔で出迎えてくれた

祥子はお休みなので融と一緒に学校に行く事になっていた

融はそれが嬉しくて仕方が無かったが、しかし祐巳の表情は晴れない

 

 

「祐巳ちゃん、準備はできたかい」

 

 

「うん」

 

 

祐巳は融と手を繋いで、玄関に向かって歩き出す

しかしやっぱり頭の中は祥子の事でいっぱいだった

 

 

「ねぇ、おとうさま」

 

 

歩きながら融の顔を見上げる

その眼差しは不安で揺れていた

 

 

「何だい?」

 

 

「おねえさま、だいじょうぶかな?」

 

 

「ただの風邪だから、大丈夫だよ」

 

 

「しんじゃったりしない?」

 

 

「風邪くらいじゃ死にはしないさ」

 

 

「ほんとうに?」

 

 

「本当だよ」

 

 

不安そうな顔で何度も確認する祐巳に融は苦笑した

本当に祥子の事が心配で仕方がないんだな、と

よく清子が「祥子さんばかりずるいわ」と愚痴を零しているけれど

だけど今ならそんな清子の嫉妬も判る気がする融であった

 

靴を履いて玄関を出ようとしたところで、祐巳は背後から清子に呼び止められた

 

 

「ああ、祐巳ちゃん、ちょっと待って」

 

 

「おかあさま、どうしたの?」

 

 

「帰りのお迎えの事なんだけど・・・」

 

 

祐巳は他の子たちと違っていつも夕方近くまで学園に残っている

何故かって山百合会で活動している祥子を待っているから

しかしその祥子が休みとなると祐巳には学園に残っている理由は無かった

 

 

「みんなといっしょに、バスでかえってくる」

 

 

どこか寂しげな表情で祐巳は言った

帰りの車の中で祥子と一日の出来事を話すのが祐巳は好きだったんだけど

でも今日はそれは出来ないし、何よりも早く病床の祥子の元へ帰りたかった

そんな健気な祐巳の様子は容赦無く清子の心を締め付けた

 

 

「じゃあ、いってきます」

 

 

哀愁を漂わせる祐巳の後姿を見送りながら、清子は一人呟く

 

 

「大丈夫よ、祐巳ちゃん」

 

 

何か思いついたのか、楽しげに頬を緩めている清子の姿がそこにあった

 

 

「お母さまが絶対に寂しい思いはさせませんからね」

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

「まったく、ほんとうにおどろきましたわ」

 

 

少し演技がかった仕草で、瞳子は盛大に溜め息をついてみせる

 

 

「めをさましたら、さやこおばさまが、せいふくをきてるんですもの」

 

 

先日の小笠原家での事件の事を瞳子は皆に話していた

暇つぶしに制服を着て遊んでいた清子

しかしそれが思いのほか楽しくて、祐巳と瞳子にもその制服姿を披露しにきたのだった

 

 

「・・・さやこおばさまって、へんなひとね」

 

 

呆れ気味に由乃が言った

やっぱりと言うか、他の子たちも似たような顔をしていた

 

 

「でも、おかあさま、かわいかったよ」

 

 

「・・・そういうもんだいかしら」

 

 

「でも、わたしとしては、もんだいはそこよりも」

 

 

乃梨子が冷静な口調で言う

 

 

「とうこが、ゆみさまといっしょに、おひるねをしたっていうところなんですが」

 

 

「そういえばそうだわ。とうこちゃん、いったいどういうことよ!」

 

 

途端に怒り狂う由乃に瞳子は余裕の表情でフフンと鼻を鳴らして見せた

人の神経を逆撫でするのが得意な、瞳子の十八番の仕草である

 

 

「あら、わたしとゆみさまは、しんせきですもの。それくらい、とうぜんですわ」

 

 

「しんせきって、そんなのかんけいないじゃん」

 

 

「それだったら、ゆみさんのこいびとのわたしは、あんなことやこんなことしちゃうわよ」

 

 

「ちょっとよしのさま、だれがゆみさまのこいびとですか!」

 

 

ぎゃーぎゃー言い争いを始める4人

しかし見慣れた光景のせいか、誰も止める者は居なかった

それどころか微笑ましい目で見られる始末

彼女達の祐巳争奪戦はすでに日常茶飯事なのである

 

 

「だいたい、わたしからではなくて、ゆみさまがいっしょにおひるねしようと・・・って、ゆみさま?」

 

 

瞳子が驚いたように声を上げる

皆が一斉に視線を向けると、沈痛な面持ちの祐巳の姿がそこにあった

 

心配そうに由乃が声をかけた

 

 

「ゆみさん、どうしたの?ブルーデー?」

 

 

由乃の言う意味が判らず祐巳は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに暗い表情に戻った

 

 

「おねえさま、だいじょうぶかなぁっておもって」

 

 

「さちこさま?」

 

 

「うん」

 

 

「さちこさまが、どうかしたんですか」

 

 

「うん、あのね・・・」

 

 

祥子が風邪で寝込んでしまっている事を祐巳は話した

祥子も融も大丈夫だって言っていたけれど

それでも苦しそうに咳き込む姿が思い出されては、祐巳の心に不安が募るのであった

 

 

「しんぱいだよね」

 

 

同意を求めるように祐巳は訊いた

しかし

 

 

「ううん、あんまり」

 

 

「それほどでも」

 

 

「これっぽっちも」

 

 

「たまにはいいんじゃないですか」

 

 

 

「・・・・・・・・・」

 

 

 

テンポ良く酷い事を言う園児4人

祥子に対してはとことん冷たい由乃たちだった

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

そして時間は流れて、祐巳たちが帰りの準備を始める頃

リリアン女学園の校門の前に、1台の黒塗りの車が到着した

乗っていたのは

 

 

「奥様、到着致しました」

 

 

「ええ、ご苦労さま。じゃあ、祐巳ちゃん迎えに行ってくるから」

 

 

清子だった

 

 

「はい。・・・あの、奥様?」

 

 

「何かしら」

 

 

「その・・・本当にそのお姿で、祐巳お嬢様をお迎えに行かれるのでしょうか」

 

 

確認するように運転手の松井は清子に尋ねた

それって冗談ですよね、いえ、冗談だと言ってください

そんな祈るような切実な気持ちで

 

しかしそんな淡い期待を裏切るように清子はさらりと言ってみせたのだった

 

 

「当たり前じゃない。せっかくこの制服、新調したんだから」

 

 

清子が身に包んでいるのはリリアン女学園高等部の制服だった

松井はひっそりと溜め息を漏らす

計り知れないところがあるとは前々から思っていたが、しかしまさかこれ程だったとは

 

清子に車を出すよう命じられたのは昼食を取って気分的に一段落した頃だった

何でも祐巳を迎えに行くとか何とか

今日は祥子が風邪で休みだから代わりに自分が、との事だった

 

それだけなら良かった

むしろ清子の母親らしい平凡な一面にちょっと感動さえもしていた

祥子の時はあまりそういう面は見られなかったから(これは祥子の性格によるものでもあったが)

ところが目の前に現われた清子の姿に松井は瞠目する事になる

清子が、深緑色の制服を着ていたからだ

 

先日の清子の制服騒動は使用人達の間でも広く知れ渡っていた

最終的に娘の祥子にこっぴどく叱られて一応事態は収拾していたはずなんだけど

ところがその遊びを気に入ってしまった清子は、実は祥子に内緒で制服を作っていたのである

そしてさらに清子は人知れずこんな野望も抱いていた

いつか制服を着て再びリリアン女学園に登校してみたい、と

 

松井は頭を抱えた

確かに外見の若い清子に制服はまだ似合っていると言えば似合っている

しかしそれを着て外出するとなれば話は別だ

しかも実際に学園まで出向いて祐巳を迎えに行くなんて

これはもはや笑い話では済まないところまで来ている

悪夢だった

 

 

「ふふ、待っててね、祐巳ちゃん。今お姉さまがお迎えに行きますからね」

 

 

松井の苦悩など露知らず

清子は楽しそうにそう呟くと、軽い足取りで校門の奥へと消えていったのだった

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

幼稚舎の子たちが一斉に帰る準備を始めた

そろそろバスに乗って家路につく時間だ

いつもだったら横でそれを眺めている祐巳も今日は一緒になって準備をしている

祥子の事が心配で仕方が無い祐巳は一刻も早く家に帰りたかった

 

 

「あーあ、つまんないの」

 

 

祐巳の隣で同じく帰宅の準備をしている由乃が、ふてくされ気味に呟いた

由乃がいつも遅くまで残っているのは祐巳がいるからだ

しかしその祐巳が帰るとなると由乃には残る理由が無かった

 

 

「よしのさん、かえるの?」

 

 

「だって、ゆみさんがいないんだもん・・・」

 

 

「祐巳ちゃん」

 

 

教室の入り口のドアから名前を呼ばれて祐巳は振り返る

声の主は担任の先生だった

いつもと同じく人当たりの良い笑顔を浮かべているけど、しかし何故か頬を引きつらせている

 

 

「はい」

 

 

祐巳は返事をして担任の元へと歩み寄る

 

 

「祐巳ちゃん、その・・・えっと、お母さま?がお迎えにいらして・・・」

 

 

「先生、『お母さま』じゃなくて、『お姉さま』と申し上げたはずですが」

 

 

そう言って横から姿を現したのは

 

 

「おかあさま!?」

 

 

「げっ・・・」

 

 

清子の姿を見た由乃は思わず言葉を漏らした

先ほど瞳子の話で聞いていた通り、まさに制服を着ていたから

教室に居た他の園児たちもぴたりと動きを止めて清子を凝視している

一様に信じられないような表情を浮かべていた

 

 

「祐巳ちゃん、ごきげんよう。それと、私が制服を着てるときは『お母さま』じゃないでしょう?」

 

 

「あっ・・・おねえさま」

 

 

「そう」

 

 

良く出来ました、と優しく頭を撫でる

祐巳は気持ち良さそうに目を細めたけれど、しかしまたすぐに不思議そうな顔になった

 

 

「えっと、おねえさま、どうして?」

 

 

「今日は祥子さんの代わりに、私が迎えに来たの」

 

 

「あの」

 

 

置いてけぼりにされていた担任の先生が躊躇いがちに声をかけた

 

 

「はい?」

 

 

「祐巳ちゃんのお母さま、ですよね?これは一体・・・」

 

 

「母ではなくて、姉の清子です」

 

 

「は、はぁ?しかし・・・」

 

 

「姉の清子です」

 

 

「えーっと、祐巳ちゃん?この方は・・・」

 

 

「おねえさまです」

 

 

「・・・・・・・・・」

 

 

清子と祐巳にさも当然のように言われ担任の先生はすっかり言葉を失ってしまう

と言うか明らかにおかしいのは清子の方なんだけれど

しかしそんな当たり前のような顔をされるとまるでこっちが間違っているような気がしてくるのであった

これが笑顔だけで相手を説き伏せるさーこ様マジックである

 

 

「祐巳ちゃん、準備できた?」

 

 

「うん。ちょっとまって」

 

 

すててて、と駆け足で教室の中に戻り、鞄を持ってまた戻ってくる

相変わらず動きを止めたままの同級生たちは、黙ったまま祐巳の動きを目で追っていた

制服を着てやってきた清子と、それに普通に接している祐巳に明らかに引いていた

 

 

「おまたせ」

 

 

「じゃあ、帰りましょうか。祥子さんも待っているわ」

 

 

「うん」

 

 

そう言って清子は祐巳と手を繋いで、担任の先生に向かって一礼をする

 

 

「では先生、ごきげんよう」

 

 

「せんせい、ごきげんよう」

 

 

笑顔で小笠原親子、もとい小笠原姉妹は去っていく

その場に取り残された者達はただ呆然とその後姿を見送る事しか出来なかった

清子と祐巳の楽しげな会話が、廊下に虚しく響いていた

 

 

そんな中、いち早く我に帰って行動を起こしたのが真美と蔦子だった

真美はその場で手早くメモを取り

蔦子は愛用のカメラですかさず清子と祐巳の姿をフィルムに収めていた

 

それらの記録は数日後、真美が作った新聞として幼稚舎に広まるようになり

そしてそこからさらに学園全体へと今回の事件が知れ渡っていく事になる

さーこ様伝説第二章の幕開けであった

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