気だるげな視線を彷徨わせながら歩いていた江利子が瞳を輝かせたのは、
見覚えのある小さな背中を見た時だった。
リリアン女学園高等部の、薔薇の館へ続く道の途中での事だった。
道横の花壇の前で、祐巳が屈み込んで何かを一心に見つめていたのである。
高等部の敷地に幼稚舎の制服という組み合わせは、
普段は見慣れないせいか違和を感じさせたが、
逆にそのギャップを面白いと感じる江利子であった。
思わず後ろからぎゅっと抱きしめたくなるような、愛嬌のある背中だった。
そんな衝動に江利子は耐えながら、
差し足忍び足で祐巳に気づかれないように静かにゆっくりと近づいて行く。
もっとも、当の祐巳は目の前の何かを一生懸命に見つめていて、
多少の物音には気づきそうに無かったけれど。
(祐巳ちゃん、何をそんなに一生懸命見ているのかしら………?)
いつもの無気力はどこへやら。
祐巳が関わってるとなると、途端に興味を抱く江利子である。
放課後の西日が、江利子の影を長く伸ばしていた。
背後から音も無く忍び寄ってきた江利子に祐巳は全く気がつかなかったが、
さすがに自分の周囲が江利子の影にすっぽりと覆われてしまった時は驚いて身を僅かに上下させた。
何事かと即座に振り返ろうとした祐巳だったが、
しかしそれよりも早く祐巳の両目は江利子の手によって覆われてしまった。
突然視界を塞がれた祐巳は、「ひゃっ」と間の抜けた悲鳴を上げた。
続いて背後から、悪戯っぽい江利子の声が飛ぶ。
「だーれだ?」
視界が遮られて身を強張らせていた祐巳だったが、
その意図を理解すると途端に相好を崩して楽しげな表情になった。
そんな祐巳に負けず劣らず楽しそうな声で、江利子は尋ねる。
「さて、私は誰でしょう。祐巳ちゃんは分かるかしら?」
「えっとね、えーっとね」
「残り5秒よ」
「え、ちょっとまって!………えっと、このこえはね」
うーん、と祐巳は首を傾げて逡巡する。
江利子は思わずクスリと笑みを零した。
祐巳の一つ一つの仕草が無邪気で、微笑ましかった。
「あ、わかった!」
祐巳は嬉しそうに声を上げると、そっと江利子の手に自らの手を重ねる。
「えりこさま!!」
「ふふ、そう。正解よ、祐巳ちゃん」
江利子の手を外して、祐巳は勢い良く振り返る。
その目で江利子の姿を確認すると、祐巳は太陽のようにぱっと明るく笑った。
祐巳は立ち上がると江利子と正面から向き合って、きちんと姿勢を正した。
「えりこさま、ごきげんよう!」
「はい、ごきげんよう。祐巳ちゃん、何をそんなに一生懸命見ていたのかしら」
「うん。これ」
そう言って祐巳は、花壇を指差した。
「あら、お花を見てたの?」
祐巳はぶんぶんと首を横に振る。
「ううん」
「じゃあ、何を………」
「ありさん、みてたの」
「"ありさん"?」
江利子は祐巳の横に屈むと、花壇へと視線を下ろしてじっと目を凝らす。
よく見ると、茶色の土の上に蟻が列を作って、せっせと餌を運んでいた。
あぁ、と江利子は納得したような声を上げた。
「ありさんって、蟻のことね」
「うん。ありさん、がんばってるの」
そう言って祐巳は江利子の横で屈むと、再び蟻の列を熱心に見つめた。
江利子にとって全然珍しいものでもないが幼い祐巳にはやはり新鮮なものに映るのだろうか。
でも、世間一般的に考えて、特別面白いというものでもないはずだ。
一体何がそんなに祐巳を惹きつけるのだろうか。
江利子は不思議に思って、祐巳に尋ねた。
「………祐巳ちゃん、これ、面白い?」
「うん!」
笑顔で即答。
何が面白いのだろうという疑問が馬鹿馬鹿しく感じられるくらい、
まっすぐで純粋な響きだった。
「じゃあ、どの辺が?」
「へ?うーん………」
しかしいざ問い返してみると、それは自分でも不思議だったらしい。
祐巳は難しい顔で首を傾げていた。
その様子がまた可笑しくて、江利子はぷっと吹き出してしまった。
(本当に、訳のわからない子)
でも、そんなものかもしれない、と江利子は思った。
楽しいと思うのにいちいち理屈や理由がいるのだろうか。
それを求める事は返って自分の視界を狭めてしまうのかもしれない。
自分にはそういったある種の単純さが必要なのかもしれない。
江利子は祐巳を見ていて、そう思った。
「いいわ、祐巳ちゃん。意地悪な事を聞いてしまってごめんなさいね」
まだ悩んでいる祐巳の頭を撫でながら、江利子は言った。
「あのね、ありさん、いっしょうけんめいなんだよ」
「ええ、蟻さん、一生懸命働いているわね」
「がんばりやさんなの」
「そうよ。蟻さんはとても頑張りやさんね。
でも、中には怠けて仕事をしない蟻さんもいるのよ。うちの聖みたいにね」
くしゅん、と遠くから大きなくしゃみが聞こえてきた気がした。
「どうして?」
「さぁ、どうしてかしら。でもやっぱり、人間にも蟻さんにも、
働きたくないって考える怠け者がいるということなんでしょうね」
「ふーん………えりこさまって、なんでもしってるんだね」
祐巳は感心したように言いながら、再び蟻の行列に視線を落とした。
相変わらず蟻たちは列をなして、せっせと餌を運んでいた。
少しも代わり映えのない光景だが、しかし祐巳にはそれがやっぱり不思議なものに映るらしい。
顔を近づけて熱心に見入っていた。
江利子も祐巳と一緒になって、じっと蟻の行列を眺めていた。
もっとも、やはり祐巳のように面白いと感じる事はできなかったけれど。
「そうだ!」
突然祐巳はそう叫んで、勢いよく立ち上がった。
何の前触れも無い、本当に突然の事だったのでさすがの江利子も驚いた。
跳ね上がった心臓を片手で押さえながら、江利子は祐巳を仰ぎ見た。
「祐巳ちゃん、どうしたの?」
祐巳はきらきらと瞳を輝かせながら、言った。
「わたしも、ありさんになる!」
「………は?」
………。
そして、数十分後。
「ねぇ、何かしら………あれ」
「さぁ………?」
「あれも山百合会の行事なのかしら?」
生徒たちが囁き合いながら向ける視線の先にあったのは、
一列に並んで歩く山百合会メンバーの姿。
それぞれの手には均等に荷物が持たされていて、
列を乱す事なく律儀に歩くその姿は、
見ようによっては何とも異様な光景だった。
しかしそれを行っている山百合会の面々は、特に恥ずかしがっている様子も無い。
堂々としたもので、むしろ楽しそうだ。
それよりも生徒達の目を引いたのは、列の先頭を歩く幼稚舎の女の子の姿だった。
手に荷物を抱えて満面の笑みを浮かべながら列を率いていた。
一体どうして山百合会がこんな事をしているのか誰も分からなかったが、
しかし祐巳の楽しそうな表情はそんな事はどうでも良いと思わせるくらいに明るかった。
事の経緯はこうだった。
放課後、祐巳と一緒に薔薇の館に姿を現した江利子は、
開口一番こう言ったのである。
「今日の仕事は皆で荷物運びよ」
江利子が突拍子がないのはいつもの事だった。
さすがに理解不能といった顔を浮かべた山百合会一同に、
江利子が事のあらましを話すと、
その場にいた山百合会メンバーはあっさりと仕事を放棄して江利子の案に賛同した。
何故なら、他ならぬ祐巳がそうしたいと言ったからである。
どこまでも祐巳には甘い、麗しの山百合会であった。
そうして今日は皆と荷物運びをする事になった祐巳。
足取りも軽くすっかりご満悦といった表情だ。
その様子を見ていた山百合会一同も、自然と笑みがこぼれた。
くるり、と祐巳は振り返って言った。
「せいさま、おしごとサボっちゃだめだよ」
「ゆ、祐巳ちゃん、何で私にだけ言うの!?」
「だって、えりこさまが、いってたもん」
「なっ、ちょっと江利子、祐巳ちゃんに何吹き込んでんのよ!」
そんな聖の抗議の声を無視して江利子は先頭の祐巳に歩み寄った。
そして肩を並べると、同じように2人の影も仲良く並んで伸びていた。
時計の長針と短針みたいだわ、と江利子は思った。
「祐巳ちゃん、楽しい?」
「うん!わたしも、ありさんみたいに、いっしょうけんめいはたらくの!」
祐巳が笑顔で答えると、それにつられるように江利子も笑みを浮かべた。
「そう。祐巳ちゃんは、頑張りやさんね」
「えりこさまは?」
「え?」
「えりこさまは、たのしい?」
「私?私は………」
顎に人差し指をあてて、江利子はほんの少しだけ逡巡する。
冷静に考えたら不思議だった。
どうして自分は、普段は見向きもしないようなこんな単純な遊びを皆とやっているのだろう。
ややあって、江利子は祐巳に視線を戻した。
その先で、祐巳は期待に満ちた目で江利子をじっと見ていた。
(………ああ、そうか)
納得したようにそう小さく呟いて、江利子はふっと柔らかく微笑んだ。
「そうね。祐巳ちゃんが楽しいなら、私も楽しいわ」