「ね、ね、しまこおねえさま。おねえさま、びっくりしてたね」

 

 

「ふふ、そうね。祥子さま、とても驚いた顔をされていたわね。

私と乃梨子がここに来るって、祐巳ちゃんが誰にも言わないで、秘密にしていてくれたお陰ね」

 

 

「しまこおねえさまと、やくそくしたんだもん。だからわたし、おくちにチャックしてたの!」

 

 

無邪気に言う祐巳に、志摩子は静かに微笑んだ

2人がやってきたのは散策路から少し外れた林の中

人目につかず、祐巳と2人きりになれる場所を、志摩子は事前にきちんと調べていたのだった

 

 

勢いのある夏の日差しも、幾重に重なる木々の枝葉に遮られて、和らいだものになっていた

木漏れ日は優しく、鳥のさえずりは心地よい

そして何と言っても隣には大好きな志摩子

体の中がじんわりと温かいもので満たされて、祐巳は幸せだった

 

 

「祐巳ちゃんは良い子ね。でも、もう一つ、約束があったのを覚えているかしら」

 

 

「へ?」

 

 

「ふふ、忘れてしまった?祐巳」

 

 

祐巳、と志摩子は呼んだ

いつもは祐巳ちゃんと呼ぶのに

最初はそれに違和を感じただけだったけれど

すぐに祐巳はそれが何かを思い出した

夏休みに入る前に、講堂裏で志摩子と交わした秘密の約束

それは

 

 

「おねえさま」

 

 

2人きりでいるときは、こうして「祐巳」「お姉さま」と呼び合うこと

「祐巳ちゃん」「志摩子お姉さま」というような他人行儀な呼び方ではなく、普通の姉妹がそうするように

それはより楽しくて、そしてより親密なお互いの呼び方だった

 

 

これは友達にも家族にも誰にも教えていない、二人だけの秘め事

その甘美な響きに祐巳は大いに胸をときめかせた

それにもっと志摩子と仲良しになれると思うと、祐巳は嬉しくて仕方がなかったのだ

 

 

ところが

 

 

「………おねえさま」

 

 

祐巳はもう一度、確かめるように言葉に出してみる

言いながら祐巳は顔をしかめた

それは間違いなく隣にいる志摩子に向けた言葉のはずだった

しかし

 

 

「………おねえさま?」

 

 

呟きながら祐巳は首を傾げる

その言葉は実体を伴わず、どこか上滑りしてしまっている気がした

志摩子に対して「お姉さま」と呼ぶ事には違和感があった

そしてそれは何度繰り返してもどうしても拭いきる事はできない

どうしてかって、祐巳が「お姉さま」と言葉に出すたびに、その脳裏に浮かぶのは祥子の顔だったから

 

 

祐巳の中の「お姉さま」とは、イコール小笠原祥子なのだった

それは確固たる定義で、たとえ志摩子でもそれを揺るがす事はできない

祐巳の「お姉さま」として祥子の存在は、祐巳の中で燦然と輝いている

そして先日の、迷子になった祐巳を祥子が真っ先に見つけ出した一件以来、その絆はさらに強固なものになっていた

 

 

志摩子への愛情とはまた別の、絶対的な祥子への愛情だった

それは誰にも侵すことのできない聖域で

志摩子への恋慕と両立する形で、祥子への愛も祐巳の中に存在していた

もっとも祐巳は、そんな自分自身が上手く把握できなくて、困惑した表情を浮かべるだけだったけれど

 

 

そんな祐巳の表情を見て志摩子は何かを感じ取ったらしい

祐巳の頭に手を置いて、ふっと表情を和らげた

 

 

「祐巳ちゃんにとっての『お姉さま』は、祥子さまだけなのね」

 

 

「しまこおねえさま………ごめんなさい」

 

 

「いいのよ、祐巳ちゃん」

 

 

今にも泣き出しそうな祐巳を安心させるように、志摩子は祐巳の頭を静かに撫でた

 

 

「私、祐巳ちゃんがどれだけ祥子さまの事を思っているか、よく知っているもの。

祐巳ちゃんの祥子さまの間には、私にだって割って入れない強い絆があるのね」

 

 

「うん。………でもわたし、しまこおねえさまのことも、だいすき」

 

 

志摩子は微笑む

 

 

「それも、よく知っているわ」

 

 

「志摩子!!」

 

 

突然2人の間に割って入ってきた、空気を振るわせんばかりの怒声

祥子だった

肩で息をしながら志摩子を睨みつけている

そしてその後ろには、控えるように乃梨子が佇んでいた

 

 

「あら、祥子さま」

 

 

それでも志摩子は泰然とした態度を崩さない

 

 

「どうかされたのですか。そんなに息を切らせて」

 

 

「どうかされたのですか、ですって?」

 

 

神経を逆撫でするような志摩子の言葉に、祥子の額に青筋が浮かんだ

しかし祐巳の姿を見て幾分か落ち着きを取り戻す

祥子は先ほど綺麗に二等分に引き裂いたハンカチで、頬を伝う汗を拭った

そして数回その場で大きく深呼吸

最愛の妹の手前、はしたない姿は見せられないのだ

 

 

そうして祥子はようやく心を静めると、再び志摩子と対峙した

 

 

「志摩子、貴女………こんなところで、祐巳と何をしていたの」

 

 

「2人で愛を育んでいました」

 

 

「………何ですって」

 

 

「ね、祐巳ちゃん。私と祐巳ちゃんは、とっても仲良しだものね」

 

 

「うん」

 

 

「きーっ!!」

 

 

祥子のハンカチが4等分になった

 

 

「でも、わたし、おねえさまのこともだいすきだよ」

 

 

「ゆ、祐巳………っ」

 

 

祐巳の言葉に感動した様子の祥子

表情から険しさが消え去って、代わりに静かに歓喜を滲ませる

気難しい小笠原のお姫様は、最愛の妹の言葉一つで右にも左にも傾くくらい単純なのだ

 

 

「あら祐巳ちゃん、祥子さまの前だからって、無理に気を遣ってお世辞を言わなくても良いのよ」

 

 

しかしそこへ穏やかに水を差してくる志摩子

 

 

「志摩子………それは一体どういう意味かしら」

 

 

「私と祐巳ちゃんの方が仲良しだということです」

 

 

あっさりと言う志摩子に、祥子は頬を引きつらせる

 

 

「………よくもぬけぬけとそんな事が言えるわね」

 

 

「それに私は祥子さまと違って、祐巳ちゃんに対してヨコシマな感情は抱いていませんし」

 

 

「だ、誰がヨコシマですって!?」

 

 

「あら、違うのですか?」

 

 

「当たり前じゃない、祐巳は私の妹なのよ!実の妹に、そんな汚らわしい感情を抱くなんて」

 

 

「では、祐巳ちゃんと一緒にお風呂に入ったり、一緒に眠ったりしてる時も、そんな感情は一切ないと?」

 

 

「あ、当たり前、じゃない………」

 

 

「目を逸らさないでください」

 

 

「………そ、そういう貴女はどうなのよ」

 

 

「失礼な。劣情にまみれた祥子さまと一緒にしないでください。

私が祐巳ちゃんに対して抱いている感情は純粋で、そして崇高かつ美しいものです。

例え妙な衝動に見舞われたとしても、それは恋愛感情の延長線から生まれる至って健全なもの。

祐巳ちゃんの可愛らしいうなじに口付けをしてみたいとか、

祐巳ちゃんの日々の発育の様子をこの手で直に確かめてみたいとか、その程度ですわ」

 

 

「ただの変態じゃない」

 

 

「変態、とはお言葉ですわね、祥子さま。愛の形と呼んでください」

 

 

「綺麗な言葉で言い換えても全然フォローできてないわよ」

 

 

「祐巳ちゃんが本当に不憫だわ。私はともかく、このようなケダモノと一緒に暮らしているだなんて………あら?」

 

 

「ちょっと、誰がケダモノよ………って!?」

 

 

祥子は驚いた声を上げた

志摩子との舌戦に熱中していて全く気が付かなかった

 

そこにいるはずの祐巳の姿が、どこにも見当たらない

 

そして付け加えるなら自分をここまで案内してくれた市松人形の女の子の姿もない

これには祥子のみならず、さすがに志摩子も少々面食らったような顔をしていた

 

 

「乃梨子ちゃんの仕業ね………」

 

 

悔しさに顔をゆがめながら、忌々しそうに祥子は呟く

 

 

「乃梨子………私たちを出し抜くなんて、やるようになったわね」

 

 

こっちは悔しがっているのか感心しているのか、どちらとも取れるような志摩子の言葉

まさかの伏兵にまんまと祐巳を持って行かれて、紅の白の薔薇のつぼみは静かにため息を零したのだった

 

 

 

 

 

………

 

 

 

 

 

「ねぇ、のりこちゃん、どこにいくの?」

 

 

祐巳は不思議そうに前を行く乃梨子に声をかけた

乃梨子に連れられて、祐巳は人気のない場所にやってきていた

祥子と志摩子のいた場所からはもうずいぶんと離れている

 

 

しかし乃梨子は先ほどから何も言わず、ただ祐巳の手を引っ張ってずんずんと前を行くだけ

まるで行き先も決まらないままに祐巳を誘導しているようだった

 

 

「………のりこちゃん」

 

 

不安と心配が入り混じった声で、再び祐巳は乃梨子の背中に声をかける

そこでようやく乃梨子は足を止めて祐巳へと振り返った

しかし祐巳とは視線を合わせようとはせず、乃梨子は下を向いたままだ

 

祐巳は驚いて、乃梨子の顔を覗き込むようにして見た

 

 

「………のりこちゃん、どうしたの?」

 

 

「ゆみさまは、わたしがきても、うれしくないんですか」

 

 

「へ?」

 

 

素っ頓狂な声を上げた祐巳に、乃梨子は上目で恨めしそうに祐巳へ視線を向けた

 

 

「だって、ゆみさまは、おねえさまとはなしてばっかり。

わたしも、ゆみさまにあいにきたのに………」

 

 

「………のりこちゃん、もしかして、すねてるの?」

 

 

「すねてなんかいません」

 

 

ふい、と乃梨子は顔を横に向けてしまった

しかしどう見ても拗ねているのは一目瞭然で

志摩子ばかりで自分に構ってくれない祐巳に、すっかりいじけてしまったようだった

 

 

別荘に居る時はそんな様子は全くないように見えた

何しろ乃梨子はいつもと同じの無表情だったからだ

しかし実はその向こう側で密かに嫉妬の炎を燃やしていたなんて

 

 

祐巳は思わず小さく笑みを零してしまった

クールで大人びている乃梨子にもこんな可愛らしい一面があると思うと、祐巳は可笑しかったのだ

 

 

「………わらわないでください」

 

 

少し顔を紅くして言う乃梨子の頭を、祐巳はあやすように優しく撫でた

 

 

「ごめんね、のりこちゃん」

 

 

慰めるような口調で、祐巳は続ける

 

 

「わたし、のりこちゃんのことも、だいすきだよ」

 

 

「………ゆみさまは、だれにも、だいすきっていうんですね」

 

 

「だって、だいすきなんだもん」

 

 

乃梨子はまた不満そうな顔をした

祐巳にとってはごく当たり前の事を言ったつもりだったのだけれど

でも乃梨子はそんな祐巳に苛立ちを感じてしまうのだ

自分は祐巳にとって、ごく平均的な「大好き」の範疇にしかいない気がしたから

乃梨子だって志摩子や祥子のように、祐巳の特別な「大好き」の枠の中にいたいのだ

 

 

「のりこちゃん、おこらないで」

 

 

「おこってなんか、いません」

 

 

「わたし、のりこちゃんがきてくれて、うれしかったんだよ」

 

 

「………ほんとうですか?」

 

 

「ほんとうだよ」

 

 

「………」

 

 

黙り込んでしまった乃梨子を、祐巳はそっと抱き寄せた

どこか不安そうな乃梨子を見ていて、そうしてあげたいと祐巳は感じたからだった

そして

 

 

「きてくれて、ありがとう。のりこ」

 

 

耳元で囁くように言った祐巳の言葉

乃梨子は、はっとして祐巳の顔を見る

祐巳がそういう風に自分の事を呼んだ意味を乃梨子は理解した

ずるい、とも思ったけれど、しかし乃梨子の心の中で素直な嬉しさの方が勝った

 

 

祥子が、志摩子が、そして乃梨子が大好きな笑顔が、すぐ目の前にあった

心を温かく満たしてくれる、祐巳の笑顔

祐巳が大切に想っている人たちに向けてくれる笑顔

この温もりは、夢じゃない

 

 

乃梨子は恥ずかしそうに俯くと、祐巳の腕の中に体をうずめて、小さく呟いた

 

 

 

「あいたかったです、おねえさま」

 

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