「アカマツ、カラマツ」

 

 

祥子は一つ一つ木々を指差しながら、順番に名前を読み上げていく

 

 

「カツラ、カエデ。………秋になると紅葉するわ」

 

 

時折丁寧な説明を交ぜながら祥子はゆっくり歩を進める

そしてそんな祥子と手を繋いで、ぴったりくっ付くようにして歩く祐巳

2人はいつもより少し早起きして、近所の林の中を散歩していた

この別荘に来たら是非この自然を見せてあげたいと、祥子はずっと思っていたのだった

きっと祐巳も気に入ってくれるに違いないから

 

 

しかし

 

 

「おねえさま………」

 

 

辺りには霧が立ち込めて、自分たちの周りはほとんど見えなくなっていた

どこにいるのか、どうやってここまで来たのか、それすらもおぼろげになってしまうくらいに

ゆっくりと湿り気を帯びた風が頬を撫でていって、祐巳はぞっとした

心の奥底からじわりと恐怖が湧き出してきて、祐巳は祥子の腕に強くしがみつく

その不安に揺れる瞳は祥子の顔をまっすぐに見つめていた

 

 

「大丈夫よ、祐巳」

 

 

祥子は微笑んで、安心させるように優しく言葉を紡ぐ

 

 

「悪戯好きの妖精は、1人でいる人ばかりを狙うから」

 

 

その言葉に祐巳は小さく頷くと、その腕により一層の力を込めた

何があっても決して祥子と離れ離れになってしまわないようにと

そんな一生懸命な姿が何だか微笑ましくて、祥子は祐巳の頭を優しく撫でた

 

 

姉妹水入らずの、貴重で幸せな時間だった

ここのところは祐巳と2人きりの時間というのもなかなか取れなかったから

誰にも邪魔されずに、祐巳と2人で穏やかな時間の流れに身を任せるのは、祥子にとってこの上なく幸福な事なのだ

 

この別荘での滞在期間ももうすぐ終わってしまう

東京に戻れば騒がしい日々がやってくる

こうして祐巳と静かに時間を過ごすのもきっと難しくなる

それを考えると、今の祐巳との時間がとても貴重なものに思えてくる祥子だった

 

 

どこか遠くから鳥のさえずりが聞こえてきて、あら、と祥子は呟いた

 

 

「あれはキビタキの鳴き声ね」

 

 

「きびたき?」

 

 

「鳥さんの名前よ。鳥さんだけど、時にはセミのツクツクボウシのように鳴く事もあるのよ」

 

 

樹木だけでなく、鳥についても祥子は詳しく説明をしてくれる

この周辺に存在するありとあらゆる自然について祥子は熟知していた

祐巳が何を聞いても即座に答えてくれる

祐巳は恐怖もすっかり忘れて、祥子に尊敬の眼差しを向けた

 

 

「おねえさまって、すごい。なんでもしってるの?」

 

 

祥子はにこりと笑う

 

 

「この辺りの事ならよく知っているわ。祐巳、私はね、この場所がとても好きなのよ」

 

 

2人は再び歩き出す

朝の陽光と柔らかな霧が入り混じった林の中を

辺りに人の気配はなく、聞こえるのは鳥のさえずりと葉擦れの音だけ

そこはまるで幻想の世界であり、そして祥子と祐巳だけの世界だった

 

 

いつしか祐巳の恐怖は完全に消え去っていた

豊かな自然の恵みに囲まれ、そして隣には世界で一番の姉の存在

この世の不幸は一切排除されて、そこには幸福だけが満ちている

その幸せをかみ締めながら、祥子はもう一度木々を指差した

 

 

「ほら祐巳、ごらんなさい」

 

 

祥子がそう言うと、祐巳もそちらへと視線を向ける

 

 

「あれはナナカマド。"七度かまどに入れても燃えない"からナナカマド、とも言われているわ」

 

 

祐巳は興味深そうに、熱心に祥子の言葉に聞き入っている

祥子はさらにその先へと指を差した

 

 

「あれはイチョウ。リリアンの敷地内にもたくさん植えてあるわね。

その先にあるのがブナ。大きいものになると高さが30mにもなるそうよ。

そして、その間にひっそりと佇んでいるのが、シマコとノリコ………」

 

 

 

………

 

 

 

「………ん?」

 

 

 

シマコと、ノリコ?

 

 

 

「………って!?」

 

 

 

祥子はぎょっとして目を見張った

最初は白色の霧と木々の陰影で見間違えたのだと思った

いや、そうであって欲しいと強く願った

しかしそんな祥子の祈りも虚しく、そこに居たのは紛れも無く志摩子と乃梨子

ここに居るはずの無い、悪夢の藤堂姉妹だった

 

 

「しまこおねえさま!のりこちゃん!!」

 

 

呆然と立ちすくむ祥子の隣で、祐巳が驚いたように声を上げた

しかし祥子と違って、そこには幾分か歓喜の響きが入り混じっていたけれど

 

 

「ごきげんよう、祐巳ちゃん。それに、祥子さまも」

 

 

天使ともマリアさまとも形容されるその微笑に、祐巳はぱっと表情を明るくさせた

この場所で志摩子に会えた事が純粋に嬉しかったから

そして逆に隣の祥子は愕然とした表情を浮かべていた

まさかこの場所で志摩子に遭遇するとは夢にも思っていなかったから

 

 

ガラガラと世界が音を立てて崩れていくのを祥子は感じる

そして眩暈と一緒に、自分が底なしの穴の中へと落下していくような感覚も

 

 

悪戯好きの妖精だなんて可愛らしいものではなかった

ここに潜んでいたのはまさに悪魔と呼ぶに相応しい存在

先ほどまで祥子を包んでいた慎ましやかな幸福は既に影も形も見えない

辺りにあるのは絶望の暗闇だけだ

 

 

「しまこおねえさま!!」

 

 

どこまでも限りなく消沈していく祥子を尻目に、祐巳は嬉しそうに志摩子の腕の中に飛び込んだのだった

 

 

 

 

 

………

 

 

 

 

 

祥子はテラスに出て庭をぼんやりと眺める

爽涼に駆けるそよ風は、庭を覆う一面の緑をのびやかに揺らし

遠くから時折聞こえてくる動物の鳴き声が、のどかな光景に静けさを添えていた

全く非の打ち所のない平和に満ちた世界

どんな小さな厄災だって、ここには全く入り込む余地はないはずだ

 

故に祥子は思うのだった

これは全て夢に違いない、と

 

 

「祐巳ちゃん、久しぶりね。会いたかったわ」

 

 

「うん。わたしも、しまこおねえさまに、あいたかったの」

 

 

だから、背後のリビングから聞こえる楽しげな会話も、きっと夢の産物なのだ

 

 

「あら、嬉しいわ。そうそう、うちの乃梨子もね、祐巳ちゃんに会えなくてずっと寂しがっていたのよ」

 

 

「そうなの?のりこちゃん」

 

 

「わ、わたしは………その………」

 

 

普通に考えて、藤堂姉妹がこの場所にやってくるなんて、ありえない事なのだ

藤堂姉妹はここには決しているはずのない人間なのだ

いやね、私ったら

まだ寝ぼけているのかしら

そうよ、この場所は、私と祐巳の楽園なのだもの

そこにいるのは祐巳だけのはずだわ………

 

 

祥子はゆっくりと振り返る

 

 

「あら祥子さま、どうかされたのですか?とても険しい表情を浮かべられて」

 

 

「………志摩子」

 

 

しかし祥子の強い願いも虚しく、悪夢の化身は、ちゃんとそこにいたのだった

 

 

「そのような気難しいお顔をされていると、皺がよってしまいますわ」

 

 

「余計なお世話よ。そんな事より、貴女たちどうやってここまで来たの。

私たちの行き先は、一部の人間以外は誰も知らなかったはず………」

 

 

「あら、だって私は、祐巳ちゃんのお姉さまですもの」

 

 

言いながら志摩子は、祐巳ににっこりと微笑みかける

 

 

「妹のことなら、何でも分かりますわ」

 

 

祐巳の頬がうっすらと紅く染まる

お互いに視線を交わすその様は誰も立ち入る事が出来ない程の親密さで

激しい嫉妬に駆られた祥子はその怒りを手元のハンカチにぶつけつつ、再び庭の方へと振り向いた

激情に染まった表情を祐巳に見られたくなかったから

 

 

祐巳の楽しそうな表情が祥子の脳裏に浮かぶ

これまで柏木兄弟やら名家のご令嬢たちやらが来た時も、祐巳は嬉しそうにしていたけれど

しかし志摩子の場合ではそれらとは明らかに一線を画していた

普段の快活な素顔に加え、そこには憧憬や或いはそれ以上の感情が滲んでいるのだ

 

 

そこはやはり悔しいと感じる祥子であった

自分以外に、祐巳にそういった感情を抱かせる存在というのが、祥子は許せないのだ

何とも心が狭いとは自分でも思うけれど

しかしそれだけ、祥子の祐巳に対する愛情と執着は凄まじいという事なのである

祥子は祐巳にとってのナンバーワンで、オンリーワンの存在でありたかった

 

 

祥子は大きく深呼吸をする

祐巳をたぶらかす藤堂志摩子という存在

東京での日常だけに飽き足らずこんな場所まで追いかけてきた

小笠原姉妹の平穏な日々をここまで執拗に脅かしてくるとは、図々しいにも程がある

 

 

これまでの志摩子の横暴を思い返すと、次第に沸々と怒りが沸いて来た

祥子は奥歯を強く噛んで拳を固く握り締める

今まで祐巳の手前、激昂することなく何とか耐え忍んできたけれど

しかしもう我慢の限界だ

どっちが祐巳の姉に相応しいのか、ここで白黒をつけてやろうではないか

 

 

勢い良く祥子はリビングへと振り返り、びしりと志摩子を指差した

 

 

「志摩子!私と貴女、どっちが祐巳の姉に相応しいのか………って!?」

 

 

しかしそこに志摩子の姿はあらず

さらに付け加えるのなら祐巳の姿も見えない

ただ乃梨子だけが、相変わらず表情の読めない眼差しを祥子に向けながら、ジュースを飲んでいた

 

 

「………乃梨子ちゃん?志摩子はどこに行ったのかしら。それに、祐巳も」

 

 

乃梨子はゆっくりと首を横に振る

 

 

「ぞんじません」

 

 

簡潔な乃梨子の言葉に、くっ、と祥子は呟いた

本当は知っているに違いないが、しかし志摩子に口止めされているのだろう

乃梨子は姉の志摩子の言いつけは良く守る子なのだ

だからどんなに祥子が強く問いただしても、決して口を割らないのは目に見えていた

 

 

さすがは志摩子の妹というべきか、乃梨子は普通の園児たちに比べてやっかいな存在だった

いや、由乃や可南子も全然普通の園児ではないのだけれど

それでも乃梨子の狡猾さは他より一歩抜きん出ていた

落とし穴に落としてくるわ、頭に金だらいを降らせてくるわ、これまで祥子も散々な目に遭っている

その巧妙ともいえる策士ぶりにはさしもの祥子も少しも油断する事はできない

 

 

しかし祥子だっていつまでもやられっ放しという訳にはいかない

子供相手に遅れを取るわけにもいかない

これまでの付き合いで、祥子は乃梨子の特性をちゃんと理解していた

油断も隙もないようで、しかし付け入る部分はあるのだ

 

 

「そう、残念だわ」

 

 

祥子はそう言うと、乃梨子から視線を外して顔を横に向けた

 

 

「乃梨子ちゃんも知らないのなら、私にはどうする事もできないわね」

 

 

そして盛大にため息を漏らしてみせる

あまりにもわざとらしいその仕草

乃梨子は表情に微かな警戒の色を滲ませた

しかしそれを悟られまいと、乃梨子は何でもないように装って相変わらずジュースを飲んでいた

 

 

「あぁ、そういえば」

 

 

誰に話しかけるでもなく、まるで独り言のように祥子は呟く

 

 

「東京の家に、人間国宝の仏師の方に彫っていただいた仏像があったわね」

 

 

 

………ぴくっ

 

 

 

祥子の視界の端で、乃梨子の体が微かに反応した

 

 

「東京に戻ったら、祐巳に見せてあげようかしら。あとそうね、せっかくだし、祐巳のお友達も一緒に。

普段は滅多に見せるものではないけれど、私の言う事を聞いてくれる、素直で良い子にだったら……」

 

 

「さちこさま」

 

 

祥子の言葉を遮るように乃梨子が言った

祥子が顔を向けると乃梨子は既にリビングの入り口の側に立っていて

そして相変わらずの無表情で、小さく祥子を手招きした

 

 

「こっちです」

 

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