祥子が宿題を進めている傍らで祐巳は鼻歌交じりに葉書を書いていた

「滞在先から葉書を出すというのは旅の定番だから」

祐巳はそんな事を事前に祥子に教えてもらっていた

そんなわけでちゃんと祐巳は今回の旅行に葉書と切手を持ってきていたのである

 

今回一緒に来れなかった融や清子は祐巳からの葉書を楽しみに待っていると言っていた

他にも蓉子ら山百合会のメンバーやら、幼稚舎の親友達やら、送る人間はたくさんいる

だからある意味、滞在先から葉書を送るという事は、祐巳にとって今回の旅行の一種のイベントのようなものだった

 

 

「ね、おねえさま」

 

 

隣で英語の和訳をしていた祥子に、祐巳は困った顔で訊ねた

 

 

「どうかして?祐巳」

 

 

「はがきって、なにかけばいいの?」

 

 

葉書を書こうとはしたけれど、しかし何を書けば良いのかさっぱりわからない

何か面白い事とかを書いた方が良いのかとも思ったが、そうそう思いつくものでもない

祐巳としてはそれなりに気合の入る作業だが、しかし祥子は穏やかに微笑んでいた

心の余裕を感じさせるような、リラックスした表情である

 

辞書を閉じて、そうね、と祥子は呟いた

 

 

「最初に“暑中お見舞い申し上げます”って書いて、後は何でも良いのよ。

こっちは涼しいとか、ご飯が美味しいとか、祐巳がどんな風に過ごしているのかを書けば良いの」

 

 

「・・・そんなもので、いいの?」

 

 

「そう肩肘張って書かなくても良いと思うわ。祐巳からなら、どんな内容でもみんな喜ぶだろうし」

 

 

「ふーん・・・そうかなぁ」

 

 

「そうよ。祐巳、こういうのはね、葉書に何が書いてあるかという事より、

祐巳が葉書を送ってくれた、という事の方が皆は嬉しく思うのよ」

 

 

祥子の言葉はどうやらちょっと難しく感じられるらしい

祐巳は難しそうな顔で祥子を見ていた

でも、祥子がそう言うのだから、きっと間違いないだろうとすぐに思考を切り替える

 

 

あとは・・・そうね、“大好きなお姉さまと一緒に過ごせて幸せです”って付け加えておくと良いと思うわ」

 

 

「うん、わかった」

 

 

祐巳は納得したようにそう言うと再び机に向き直る

祥子は楽しそうにペンを走らせる祐巳の横顔を微笑ましそうな目で見ていた

 

至って平和な光景である

こちらに来てから静かで平穏な時間が流れていた

東京でのあの騒がしい毎日がまるで嘘のようだった

祐巳とこうしてのんびり時間を過ごすのは、祥子にとって本当に久しぶりの事だったから

 

朝は2人の気の済むまでゆっくり寝て

自然に恵まれた食材を使った朝食を食べて

周辺を散策したり本を読んだりして気ままに時間を過ごし

夜には色々な事を語らい、そして穏やかに1日を終える

 

未だかつてこんな平和な時間と空間があっただろうか、と祥子は思った

祥子の理想の生活がここにあった

ここは、血で血を洗うような闘争の日々で荒んだ心を癒してくれる

たった1週間しか滞在できないというのがどうしようもなく惜しかった

 

 

「・・・将来は、祐巳と2人でここに住むのも良いかもしれないわね」

 

 

思わず出た祥子の願望は、しかし葉書を書くことに熱中している祐巳には聞こえていなかった

そして、それと同じように祥子も、祐巳が志摩子宛ての葉書に書いた一文には気づいていなかった

 

 

『しまこおねえさまに、あいたいです』

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

柏木兄弟が小笠原の別邸を訪ねてきたのは、1週間の休暇も半ばに差し掛かった頃だった

一時は新たな環境に馴染めなかったのか少しやつれた様子の祐麒であったが

今はすっかり慣れたようで、子供らしい快活な表情になっていた

しかし心なしか優とは距離を取っているようで、そっちの『兄弟愛』には未だに慣れていないようだった

 

 

「やぁ、祐巳ちゃん。久しぶり」

 

 

避暑地に相応しい爽やかな笑顔で優が挨拶をする

 

 

「・・・ごきげんよう、すぐるおにいさま」

 

 

それに対して警戒の色を浮かべている祐巳

二枚目で人当たりの良い優に当初は好印象を抱いていたけれど

しかしその後明らかになったのは、優は祐麒に兄弟以上の愛情を注いでいるらしいという事実

それ以来、祐巳の優に対する見方もだいぶ変わってしまったという訳である

もっとも、祥子も祐巳に対して姉妹以上の愛情を注いでいるのだが

 

 

やれやれ、と優は肩をすくめて見せた

 

 

「祐巳ちゃん、そんな恐い顔しないでおくれよ。今日は祐巳ちゃんにプレゼント持ってきたんだから」

 

 

「プレゼント?」

 

 

その言葉に、祐巳は即座に目を輝かせる

 

 

「とは言っても僕からじゃなくて、君のお祖父さまからなんだけどね。ほら、ユキチ」

 

 

「うん。ほら、ゆみ。これ」

 

 

そうして祐麒から手渡されたものは、日傘だった

それは透き通るように真っ白な日傘で、どことなく上品な雰囲気を醸し出していた

祐巳はそれを手にとって興味深そうにまじまじと見つめる

夏の日差しが鮮やかに反射して、祐巳は思わず目を細めた

 

祐巳はゆっくりと日傘を天に向けると、今度は勢い良く広げてみせる

まるで真っ白な花が自分の頭上に咲いたようだった

夏の日差しが優しく遮られて、たちまち辺りに心地よい空間が生まれた

わぁ、と祐巳の歓声が上がった

 

祐巳は何だか嬉しくなって、日傘をさしたまま勢い良く駆け出した

数メートル走った後に足を止めると、その場で傘ごとくるくる回って、ぱっと向日葵が咲いたような笑顔を浮かべる

もう気分はすっかり「お嬢様」である

その一連の様子を見ていた祐麒の顔は、一目で分かるくらい真っ赤に染まっていた

 

 

「これ、おじいさまから?」

 

 

その微笑ましい光景に優は目を細めながら答える

 

 

「そう。今回帯同できなかったから、せめてこれくらいは、って

 

 

優と同じく祥子は優しい眼差しを祐巳に向けて、穏やかな声で言った

 

 

「ふふ、祐巳、とても良く似合っているわよ。良かったわね」

 

 

「うん!」

 

 

祥子の言葉に、祐巳は満面の笑みを浮かべた

さっきまでの不審そうな表情はどこへやら

白い日傘に、すっかりご満悦な表情の祐巳だった

 

 

 

 

「さて、ここから僕の提案なんだけど」

 

 

夏の高原を思い起こさせるような爽やかな笑みで、優が切り出した

 

 

「さっちゃん、祐巳ちゃん。もし良かったら、これから商店街に行ってみないかい。

メインストリートの方は賑やかだし、色々と遊ぶところもあるだろうし、それに」

 

 

そこで言葉を切って、優はちらりと祐巳へと視線を向ける

 

 

「祐巳ちゃんも、その日傘をさして色々なところを歩き回ってみたいだろうし。どうかな?」

 

 

これは優なりの心遣いでもあった

物静かで落ち着いたこの場所は確かに心地良い空間ではあるけれど

しかし逆に言えば、刺激に欠ける場所でもある

祐巳のような落ち着きのない子には、さぞかしこの場所は退屈であろう

まだこの平穏を楽しむにはいささか幼すぎるだろうし、きっと刺激に飢えているに違いない

そう考えた優は、このような提案を思いついたのだった

 

 

そんな優の言葉に、祐巳は目を輝かせながら祥子に向き直った

 

 

「ね、おねえさま、しょうてんがいだって」

 

 

子供らしい好奇心に溢れた眼差しが、祥子には眩しかった

 

 

「すっごいたのしそうだよ。ね、いってみようよ」

 

 

「ふふ、そうね」

 

 

祥子は婉然とした優しい笑顔を浮かべる

 

 

「でも、私は遠慮しておくわ。優さんや祐麒くんと一緒に、楽しんでいらっしゃい」

 

 

祥子は同行しないと知るや否や、途端に祐巳は表情を曇らせた

 

 

「・・・おねえさまは、いっしょにいかないの?」

 

 

てっきり一緒に来てくれると思ったのに

優と祐麒が一緒に行く事にもちろん不満はないけれど

でもやっぱり、姉の祥子がいないとなると残念な気持ちが湧いてくる

 

そんな祐巳に、祥子は慰めるように言った

 

 

「ごめんなさいね、祐巳。でも今は、あまり賑やかな場所には行きたくないの」

 

 

こんな台詞は、今の穏やかな心境だから言えるものでもある

もし夏休み以前のような、日々の闘争に心血を注いでいた頃の祥子ならきっと同行していたに違いない

祐巳が自分の目の届くところにいないと祥子は安心できなかっただろうから

 

しかし今は誰も邪魔者は居ない、至って平穏な時間と空間の中に祥子は身を置いていた

その安らぎは祥子の心に余裕を取り戻させるには充分だった

どんなに周りが干渉しようと自分が祐巳にとって一番近い存在なのだ

そんな確固たる自信を、祥子はこの数日間ですっかり取り戻していた

だから祥子は、優や祐麒と一緒に祐巳を遊びに行かせる事に難色を示さなかったのである

 

 

「祐麒くんも一緒なんだし、久しぶりに姉弟で思いっきり楽しんできなさい。

私は、ここで祐巳が帰ってくるのを待っているわ。もちろん、お土産もね」

 

 

祐巳の頭を撫でながら諭すように言う祥子

最初は残念そうだった祐巳も、最後は元気な声で大きく頷いて見せた

 

 

「じゃあ、おねえさま、いってきます!」

 

 

外行きの服に身を包み、そして日傘を片手に、別荘を後にする

 

 

「ええ、行ってらっしゃい、祐巳」

 

 

やっぱり祐巳には、元気が似合うわね

祥子は一人そう呟いて「姉らしい」寛大な笑顔で見送ったのだった

 

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