無事に1学期を終えて夏休みを迎えた

誰もが心待ちにしていた、実に1ヶ月以上に及ぶ長期間の休暇である

天下の小笠原家のご令嬢達もやはりそんな世間の認識と何ら変わる事はなく

夏休みに入ってすぐに、祥子と祐巳は弾むような期待感を胸に抱えて東京を出発した

向かった先は小笠原一家が毎年過ごす避暑地だ

 

 

滞在先についての情報を祥子から聞いていた祐巳は、今回の旅行を指折り数えて楽しみにしていた

避暑地と言うだけあって非常に過ごしやすい気候であるとか

辺りは豊かな自然に囲まれていて緑が溢れているとか

非常に静かでとても心安らぐ場所であるとか

祥子の言葉がとても魅力的に聞こえて、祐巳は大いに胸をときめかせた

出発前夜、興奮のあまりなかなか寝付けなかったのは言うまでも無い

 

 

そしてそんな祐巳に劣らず、むしろ祐巳以上に今回の旅行を楽しみにしていたのが祥子である

何と言っても2人きりなのだ

いつもあの手この手で祐巳を誘惑してくる不逞の輩はいない

つまり朝から晩まで一日中、祐巳と過ごす事が出来るという事だ

いや、厳密に言えば松平のご令嬢や柏木兄弟も同じ避暑地にやって来るとの事だけれど

しかしいつもの頭が痛くなってくるような連中に比べれば可愛いものである

瞳子も祐麒も祥子の親戚でお互いの印象も悪くなく、それなりに良い関係を築いていた

 

 

という訳で、それぞれ浮かれた気持ちを胸に秘めて小笠原姉妹は東京を出発する

昨晩あまり寝れなかった祐巳は車が走り出すなりすぐに眠りの世界に落ちてしまった

もちろん例によって事前に酔い止め薬を飲んできた祥子も同様である

道中、避暑地に突然藤堂姉妹が訪ねて来るという不吉な夢を見た祥子であったが

しかし目を覚ましてみると、隣の祐巳が自分の腕にしがみ付いて呑気に眠りこけていて、祥子は安堵する

改めて今回は祐巳と2人きりなのだという事実を確認して、幸せを噛み締める祥子であった

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

片道4時間の移動の末に目的地に辿り着いた2人を迎えてくれたのは、滞在先の管理人である沢村夫妻だった

もちろん祐巳とは初対面である

祥子との1年ぶりの再会を喜んだ後、キヨと源助はこの小さな主に向き直って自己紹介をした

 

 

「初めまして、祐巳お嬢様。これから1週間身の回りのお世話をさせて頂く、

キヨと申します。どうぞごごゆっくりおくつろぎくださいね」

 

 

初顔合わせという事で自然と身構えてしまっていた祐巳だったが

しかし自分を温かく迎え入れてくれたキヨと源助に祐巳も自然と笑顔を見せる

こちらも礼儀正しく自己紹介をしてから、親しみを込めて祐巳は言った

 

 

「キヨおばあちゃん、ゲンおじいちゃん」

 

 

そんな祐巳にキヨと源助は驚いて目を丸くする

 

 

「そんな、祐巳お嬢様。わたくし共の事は呼び捨てで呼んでください」

 

 

「無理よ、キヨ、源助」

 

 

頭上から祥子の噛み締めるような笑い声が聞こえて、キヨは顔を上げる

 

 

「祐巳は使用人の名前を呼び捨てで呼ぶ事が出来ないの。諦めて頂戴」

 

 

「はあ、しかし・・・」

 

 

「キヨおばあちゃん、ゲンおじいちゃん。いいでしょ?」

 

 

満面の笑顔で言う祐巳に、結局キヨと源助は折れた

これも主の命令だ、仕方ない

キヨと源助は目配せをしてお互いに苦笑する

それに祐巳にそう呼ばれると何だか孫が出来たみたいで、嬉しかった

 

 

 

その後、家に上がってお茶を飲んで一息つくと、祥子と祐巳は2階の部屋へと向かう

2人とも同じ部屋に荷物を運び込んだものだから、キヨと源助は驚いた

2階には部屋が3つあって、てっきり祥子と祐巳それぞれ1つずつ部屋を使うものと思っていたからだ

同じ部屋でよろしいのでしょうか、と窺うキヨに祥子は当たり前のような顔でさらりと答えた

 

 

「あら、当然じゃない。家でもそうだもの。それに祐巳も、私と同じ部屋の方が良いでしょう?」

 

 

うん、と隣で祐巳が元気よく首を縦にふる

仲睦まじい(と言うか祥子の祐巳に対する執着が凄い)と噂には聞いていたが

改めて小笠原姉妹の仲の良さを知ったキヨと源助であった

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

1階の広間の先にあるテラスで祐巳は庭を眺めながら、1人呟いた

 

 

「・・・・・・・・・ひま」

 

 

まだここに来たばかりで周囲の土地について全然知らないし、遊び相手もいない

祥子は少し横になりたいからと今はお昼寝中だ

静かで、涼しくて、食事も美味しくて、素朴な感じのするこの家を祐巳は大層気に入ったが

だけど1人だと何もする事がなくて祐巳はすっかり暇を持て余していた

 

仕方が無いので持ってきた絵本でも読もうかと思った時である

祐巳の視界の端で何かがうごめいたのは

 

何事かと視線を向けると、瞬く間に祐巳は目を輝かせた

 

 

「リスさんだ!」

 

 

茶色っぽい、野生のリスである

どこか興味深そうな目で祐巳を見つめていた

どうやらこの小笠原家の私有地に迷い込んできたらしい

祐巳は庭に下りてその場に屈むと、リスに向かって手招きをした

 

 

「おいで」

 

 

しかしそこは野生のリスである

そう簡単には心は許さない

祐巳を一瞥すると身を翻して林の中に姿を消してしまった

 

 

「まって、リスさん」

 

 

そしてそれを追って駆け出す祐巳

ようやく見つけた遊び相手に、祐巳は一直線だった

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

夕方ごろになって祥子はようやく目を覚ます

寝起きでもやがかかっているような頭のまま1階に下りていった祥子を、焦った表情のキヨが迎えた

 

 

「祥子お嬢様、祐巳お嬢様がどこにいるかご存じないでしょうか」

 

 

そんなキヨの言葉に、祥子の頭は一気に覚醒する

 

 

「何、どういう事なの。祐巳がどうしたって」

 

 

「祐巳お嬢様のお姿が、見つからないのです。先ほどまでテラスにいらしたのですが、

少し目を離していた間に姿を消してしまわれていて・・・・・・」

 

 

私の責任です、と顔を真っ青にしてキヨは弱々しく呟く

居ても立ってもいられなくなった祥子は、祐巳を探しに家を飛び出していった

 

 

一方その頃

 

 

「リスさん、どこ・・・」

 

 

リスを追って森の中に入っていってしまった祐巳

しかしいくら探せどリスは見つからず

気が付いたら、奥深いところにまで来てしまっていた

 

周りを見回しても木、木、木

空はまだ明るいが重なり合う枝葉に光が遮られて辺りは薄暗かった

祐巳は急に孤独を感じて来た道を引き返そうとしたが

しかしリスを探すのに夢中で、どこをどう辿ってここまで来たのかさっぱり分からない

 

立ち止まっているとどうにも落ち着かず、祐巳は当ても無く歩き始める

 

 

「どっちにいけばいいの・・・」

 

 

昼間には安らぎを感じたこの静寂も今は恐怖となって祐巳を取り巻いている

風が吹いて木々がざわめくと、それが一層祐巳の孤独と不安を駆り立てた

 

 

「おとうさん、おかあさん・・・ゆうき・・・」

 

 

今は亡き両親と弟の顔が突然頭に浮かんで、祐巳の口からついて出てきた

 

 

「おとうさま、おかあさま・・・」

 

 

続いて、融と清子の顔も頭に浮かぶ

 

 

「よしのさん、とうこちゃん、かなこちゃん、のりこちゃん、しょうこちゃん・・・」

 

 

親しい友人たちの顔が次々と思い出されて、しかし祐巳はどんどん心細くなっていく

もうこのまま家に帰れず、皆とも二度と会えないのではないか

祐巳はそう思うと居ても立ってもいられなくなって、夢中で駆け出した

両の瞳から不安に追い立てられるように涙がどんどん溢れてくる

 

 

「・・・しまこおねえさま、ようこさま、えりこさま、せいさま、れいさま」

 

 

助けて、と思った

不安でどうにかなりそうな気持ちを、親しい人の名前を呼ぶことで埋め潰そうとした

しかしそうすればそうする程どんどん寂しくなってくる

祐巳はついに耐え切れなくなり、足を止めてその場にうずくまった

祐巳のすすり泣く声が、辺りを覆い尽くす静寂に虚しく吸い込まれていく

 

祐巳は、こんな時いつも助けに来てくれる人の事を思い出した

困っている時、どうしようも無い時、いつもその人は祐巳に手を差し伸べてくれる

祐巳が一番頼りにしていて、心の底から信頼している人物の名を、祐巳は縋るような思いで呟いた

 

 

「・・・うっ、ひっく・・・・・・おねえさま・・・」

 

 

「祐巳!」

 

 

背後から声が響いて祐巳は振り返る

木々の間から誰かが息を切らして祐巳を見下ろしていた

祐巳は涙を手の甲で拭って、声の主を確かめる

そこにいたのは

 

 

「・・・おねえさま?」

 

 

呼吸を整えながら、祥子は祐巳に歩み寄る

 

 

「祐巳?祐巳なのね?」

 

 

「おねえさま!」

 

 

まっすぐに祥子に祥子に飛びつくと、祐巳は堰を切ったように大声で泣いた

 

 

「うっ・・・おねえさま、・・・・・・こわかったよぉ」

 

 

「もう大丈夫よ、祐巳。怪我は無い?」

 

 

祥子の腕の中で祐巳が頷く

しかし泣き声が止む事は無かった

泣きじゃくる祐巳を、祥子は安心させるように強く抱きしめた

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

「全く、皆に心配かけては駄目じゃないの」

 

 

「・・・ごめんなさい、おねえさま」

 

 

ベッドに腰掛けながら、祐巳は俯いて申し訳無さそうに言った

あの後、祥子に続いてやってきた源助の案内で無事に家に帰る事ができた祐巳

特に怪我もなく祥子たちは大いに安堵したが

しかし祐巳は祥子を心配させてしまったと、ずっと肩を落としてしょんぼりしていた

 

そんな祐巳の頭を撫でて、祥子は優しく言った

 

 

「祐巳がちゃんと反省しているのなら良いのよ」

 

 

祥子の言葉に祐巳もようやく本来の笑顔を取り戻す

やっぱり祐巳は明るい表情が似合う、と祥子もつられて頬を緩めた

せっかくの避暑地での休暇である

楽しく穏やかに過ごしたかった

 

 

「じゃあ祐巳、そろそろ寝ましょうか」

 

 

そう言って祥子は傍にあった電気スタンドに手を伸ばす

 

 

「うん。・・・・・・ねぇ、おねえさま」

 

 

「どうかして?祐巳」

 

 

「どうして、わたしをみつけられたの?」

 

 

祐巳は不思議そうに言った

あの広大な森の中で自分を見つけ出してみせた祥子

一時はもう帰れないかと祐巳は本気で絶望したものだが

しかし祐巳が祥子を呼んだ瞬間に、祥子は本当に自分の元に現われたのである

何か魔法でも使って見せたのだろうかと、祐巳はずっと不思議に思っていた

 

 

そんな祐巳に、祥子は微笑む

 

 

「あら、私は祐巳がどこにいても、必ず見つけ出してみせるわよ」

 

 

穏やかに、しかし自信に溢れた表情で祥子は言い切った

魔法でも何でもなく、純粋で強固な愛情と信頼からくる言葉だった

そんな祥子が心強く、また嬉しくて、祐巳は祥子の腕に抱きつく

祥子はもう一度祐巳の頭を優しく撫でた

 

 

「じゃあ、灯り消すわよ」

 

 

「うん」

 

 

「お休みなさい、祐巳」

 

 

「おやすみなさい・・・」

 

 

灯りが消され、やがて暗闇の中で2人分の寝息が静かに響く

こうして波乱の休暇初日の夜は、ゆっくりとふけていった

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