夏の湿った不快な風も、大好きな人と一緒に居ると気にはならないのであった

志摩子と一緒に居られる時間というのは、祐巳にとって何事にも代えがたい大切な時間なのだ

 

 

 

夏休みを目前に控えた、ある日の放課後の事だった

今日も幼稚舎にやって来た志摩子から、祐巳は講堂裏の桜の木へ行こうと誘われた

嬉しい申し出に祐巳は一瞬顔を輝かせたが、しかしすぐに表情に影を落とす

志摩子のお誘いだから行きたいけど、だけどもうすぐ祥子が迎えに来るかもしれない

祐巳は心配そうにそう言った

しかし志摩子が

 

「大丈夫よ、祥子さまならもうしばらく来れな・・・来ないから」

 

と教えてくれたので祐巳は安心して講堂裏へと足を向けたのだった

志摩子の言葉は何か陰謀めいたものを匂わせていたが、能天気で鈍感な祐巳は気付く由もなかった

 

 

 

いつも通り講堂裏には人影はなかった

志摩子と2人きりで時間を過ごせると判って祐巳は満面の笑みを浮かべる

 

放課後になっても依然として太陽から降り注ぐ日差しは暴力的だった

逃げ込むように2人は桜の木の木陰に入ると、祐巳は指定席である志摩子の膝の上にちょこんと座る

志摩子は微笑みながら、大切なものを扱うようにそっと後ろから祐巳を抱きしめた

 

時折吹く風に合わせるようにゆらゆらと体を揺らしては、2人は楽しげに笑い合った

交わす言葉は少なかったが心を重ね合わせているという事は何となく判る

幸せな時間だ、と祐巳は思った

 

「祐巳ちゃんは、夏休みは祥子さまと一緒に別荘に行くのかしら」

 

突然話をふられて、祐巳は志摩子の顔を見上げる

 

「うん。8がつのじょうじゅんに、1しゅうかんだって。しまこおねえさまは?」

 

「私は乃梨子と一緒に、仏像を見に行くの」

 

そういえばそうだった、と祐巳は思い出す

前に乃梨子と夏休みの話をして、乃梨子は確かそんな事を言っていた

乃梨子は祐巳も誘ってくれたけど、しかし残念ながら予定が合わなかったのだった

 

それだけではない

由乃は令と登山をするらしく、祐巳も一緒にどうかと誘われたが、これも予定が合わなかった

その他、蓉子も江利子も聖も、可南子も笙子も駄目だった

皆祐巳を誘ってはくれたものの、しかし示し合わせたように予定が被ってしまっていたのだ

原因は、8月の上旬くらいしか時間が取れなくて、必然的にそこに予定が集中してしまうからだった

 

そんな中、一人だけ祐巳と行動を共にすると言ったのが瞳子だった

本当は瞳子は家族とカナダに行く予定だったんだけど

それをキャンセルして、瞳子は祐巳と一緒に避暑地に行く事にしたのだった

曰く

 

「ゆみさまはあぶなっかしいですから、わたしがそばにいないとだめですわ」

 

そんな事を言って、しかしちっとも仕方が無さそうでは無い様子の瞳子であった

天敵・可南子の突き刺さるような視線も余裕で交わすくらいだから、どうやらよほどご機嫌だったらしい

笑顔で夏休みを指折り数えて楽しみにしている姿が、それを雄弁に物語っていた

 

もちろん祐巳は祥子や瞳子と一緒に避暑地に行くのを楽しみにしていたが、でもやっぱり寂しいと言えば寂しかった

いつも一緒に遊ぶ由乃たちや、自分を可愛がってくれる蓉子たちと会えない

せっかくの長い休みなんだから皆と一緒に時間を過ごしたかったのに

 

そんな祐巳の少し沈んだ表情から何かを読み取ったのか、志摩子は上からにっこり微笑みかけた

 

「安心して祐巳ちゃん、私たち、祐巳ちゃんに会いに行くから」

 

闇に差し込んだ一条の光のような志摩子の言葉に、祐巳は心を弾ませる

 

「え、ほんとうに?」

 

「ええ、本当よ」

 

「じゃあ、おねえさまにもおしえてあげないと」

 

「いえ、それは駄目よ」

 

はしゃぐ祐巳を制止するように、志摩子が言った

 

「・・・どうして?」

 

「祥子さまには内緒で、いきなり会いに行って驚かせてあげるの。

祐巳ちゃんも、祥子さまのびっくりする顔を見てみたいでしょう?」

 

「う〜ん・・・」

 

志摩子の言葉に祐巳は難しい顔で考え始める

何となく祥子の驚く様子を想像してみて、祐巳の心に沸々と悪戯心が湧いてきた

江利子の影響か、最近はちょっとした悪戯をするのが祐巳は楽しいらしい

予告も無しに志摩子が訪ねてきて、びっくりする祥子の顔を思い浮かべると、確かにそれは面白そうだった

 

祐巳は可笑しそうに頬を緩めて、志摩子の考えに大きく頷いて賛同した

 

「うん、そうする」

 

「じゃあ、これは私と祐巳ちゃんだけの秘密。絶対に誰にも言っては駄目よ」

 

「うん!」

 

元気良く返事をしてくれた祐巳に志摩子はにやりと笑う

これで余計な邪魔者が入る事は無くなったと

もし自分が小笠原の別荘に寄って行く事を知ったら、他の皆も「じゃあ私も」と来るに違いない

祥子の必死の工作により他の皆は小笠原の別荘の住所を知らないようだし

結果、祐巳に会いに行けるのは、祐巳から密かに住所を聞き出した藤堂姉妹だけなのだ

そんな志摩子の陰謀には、やっぱり気付かない祐巳であった

 

 

 

 

その後も2人はしばらく幸せな時間を満喫していたが、次第に祐巳は時間を気にするようになった

その理由を、祐巳は志摩子に告げる

 

「しまこおねえさま、そろそろもどらないと、おねえさまきちゃうよ」

 

見上げれば、青かった空にも微かに朱が混じっていて、さすがに祐巳も心配顔になっていた

もうそろそろ祥子が迎えに来てしまうのではないか

自分の姿が見えなくて、祥子は困っているのではないか

祐巳の顔には判りやすくそう書いてあった

しかし大した問題じゃないとばかりに、志摩子はおっとりとした口調で「大丈夫よ」と言う

 

「どうしてだいじょうぶなの?」

 

不思議そうな目で見上げてくる祐巳を見て、志摩子は目を細めて笑った

 

「多分祥子さま達は私の淹れた紅茶を飲んで、今頃デッドオアアライブを彷徨っていると思うから」

 

「でっど、おあ、あらいぶ?」

 

「マリアさまに会えるかもしれない、という意味よ」

 

「マリアさまに?・・・いいなぁ」

 

「だから、祥子さまはもうしばらくは動けな・・・来れないと思うわ」

 

何だかよく意味がわからないけど、志摩子の言う事なら間違いない

祐巳はそう判断して、一人納得した

マリアさまに会えるかも、というのはちょっと羨ましかったけど

でも祐巳だって今まさに“マリアさま”と時間を過ごしているのだ

不満なんて無いし、むしろ幸せでいっぱいだった

 

「祐巳ちゃん」

 

マリアさまが、優しく祐巳の名を呼ぶ

 

「なに?」

 

「こうして2人きりの時は、私の事は“志摩子お姉さま”じゃなくて、“お姉さま”って呼んでくれないかしら」

 

「どうして?」

 

「姉妹って、そういうものだもの」

 

「ふーん」

 

「それで私は祐巳ちゃんの事を、“祐巳”って呼ぶの」

 

「しまいって、そういうものだから?」

 

「そう。これは2人だけの秘密よ」

 

よしよし、と祐巳の頭を撫でながら志摩子は微笑む

志摩子に褒められて祐巳は満足そうな表情を浮かべた

得てして子供というものは「秘密」という言葉に弱いもので、祐巳も例外ではなかったのである

大好きな人と秘密を共有するという事はちょっとしたスリルのようなものがあるもので

志摩子とそういう約束をした事が、祐巳には嬉しくて仕方が無かったのだった

 

 

 

 

2人はしばらくお互いに「お姉さま」、「祐巳」と呼び合っては新鮮な感覚を楽しんだ

それを繰り返しているうちに、辺りには夕刻の赤にとって変わって、少しずつ闇が落ちてきていた

 

少し気温も下がって随分と過ごしやすい気候になった

頬を撫でる涼しげな風に眠気を誘われて、いつの間にやら祐巳は穏やかな寝息を立てていた

志摩子は、母親がそうするように子守唄を歌いながら優しく祐巳の頭を撫でる

慈愛に満ちた柔らかい旋律に包まれて、祐巳は幸せそうに頬を緩めていたのだった

 

「おねえさま・・・」

 

ふいに祐巳が寝言を呟く

果たして“おねえさま”とは祥子の事なのか志摩子の事なのか

何か思いついたらしい志摩子は、夢の中の祐巳に語りかけるようにそっと耳元で囁いた

 

 

「祥子さまはヒステリックで我が侭なお姉さま、志摩子さまは優しくて綺麗なお姉さま」

 

 

・・・・・・・・・

 

 

ここぞとばかりに祐巳に睡眠学習をさせる志摩子であった

 

 

「ん〜・・・さちこさまはヒステリックでわがままなおねえさま・・・

しまこさまはやさしくてきれいなおねえさま・・・・・・」

 

 

そして志摩子の思惑通りしっかり学習している祐巳

続けて志摩子は夢の中の祐巳に問い掛ける

 

 

「祐巳ちゃん、どっちのお姉さまが好き?」

 

 

「しまこおねえさま・・・・・・」

 

 

インプット完了

夢の中から届いた返答に志摩子はにっこり笑うと、呑気に眠りこける祐巳を腕に抱えたまま立ち上がる

気が付けば下校時刻まであと少し、という時間だった

 

 

夏の気配を感じ取って色を濃くした植物の緑を見渡しながら、志摩子はこれからの予定に思いを馳せる

夏休みが楽しみだ、と思った

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