朝の出欠確認を終えて自由遊びの時間を迎えるなり、年少組の教室から出て行く園児数名

言うまでも無く瞳子と乃梨子と可南子の3人だ

自由遊びの時間は祐巳と一緒に過ごすのは、ほとんど彼女達の日課だった

 

そんな彼女達の後を、1人の少女が隠れるように少し距離を取りながらついて行く

肩の辺りまで伸びているふわふわの髪と西洋人形のような顔立ちが印象的だ

西洋人形というと志摩子と通じるものがあるけど、こちらはより可愛らしさに特化している感じである

 

瞳子たち3人は年長組の教室の中へと足を踏み入れていったが、彼女は教室の前で立ち止まった

まるで、もう自分はここから先には入れないのだと言わんばかりに

教室に入らない代わりに、彼女は背伸びをして廊下に面しているガラス窓からひょっこり中を窺う

彼女の視線の先では先ほどの3人と、お下げの少女と、そしてその中心にいるツインテールの少女が見えた

 

その姿を確認するなり、彼女はぱっと瞳を輝かせる

園児ながら、彼女の表情はまるで恋する乙女さながらだった

 

 

 

 

「ゆみしゃま・・・」

 

 

彼女の唇から優しく紡がれた言葉は、しかし教室の喧騒の中へと吸い込まれていった

 

 

 

 

彼女、内藤笙子はリリアン幼稚舎に通う年少組の生徒だ

高等部で割と有名な、“あの”内藤克美の妹である

常に成績は5番以内という事実が示す通り勉強が生きがいとも言える克美だったが

しかし妹の笙子はどちらかと言うと面白い事や、流行のものに興味を示すタイプだった

 

笙子が祐巳の存在を知ったのは幼稚舎に入学して間もなくの事だった

入学した時点ですでに祐巳の名前は幼稚舎の間に広く知れ渡っていた

あの小笠原家の娘にして、さらに年少組のイロモノ3人衆こと瞳子・乃梨子・可南子の『姉』でもあるとか

そんな常に多くの話題を振り撒いている祐巳に笙子が興味を示さないはずも無く

ある日笙子は、友達に誘われるままふらりと噂の少女を見に行ったのである

 

もうほとんど一目ぼれだった

頭のてっぺんから真下に向かってまっすぐ衝撃が突き抜けたような

笙子はすっかり心奪われて、それからと言うもののずっと祐巳を見続けてきている

祐巳を見ていると何だか心がじんわり温かくなっていくのを笙子は感じていた

 

そんな笙子の宝物は一枚の写真と、一通の手紙だった

マリア祭で天使の姿に扮した祐巳が、鼻血を流して倒れている令を一生懸命を引き上げようとしている写真

リリアンかわら版に載っていた写真を切り取ったものだけど、笙子はそれをフォトスタンドに入れて大切に飾っている

もう一つの宝物である手紙は、かつて笙子が祐巳に手紙を送って、その時のお返事として貰ったものだ

友達が祐巳に手紙を出すというから笙子もそれに習って祐巳に手紙を出したのである

祐巳から直筆の手紙が返ってきたその日の夜は、嬉しさのあまりなかなか寝付けなかった程だ

今でもたまに読み返しては、笙子は一人で幸せな気分に浸ったりしていた

 

写真も手紙も笙子にとってかけがえのない宝物だった

これらは笙子の心を満たしてくれたけど、しかし同時に虚しくも感じられた

自分と祐巳を繋いでいるものは、何てちっぽけなんだろうと

 

由乃は祐巳からリボンを貰って、瞳子たちはロザリオを貰っている

彼女達は祐巳と特別な関係を築いていて、その証明になるものを持っている

自分が持っているものとは明らかに重みが違うのだ

笙子のものは一方通行だけど彼女達はお互いに心を通わせているのだから

そんなものだから、笙子は由乃や瞳子たちをひどく羨ましく思った

 

結局、面識も何も無い笙子に出来る事と言えば遠くから祐巳を眺めるだけ

祐巳はすぐ目の前にいるのに、笙子にとってどうしようもないくらい遠い存在だった

 

 

 

 

 

笙子がそれを見つけたのは全くの偶然だった

水道のすぐ側に、真っ白いハンカチが落ちていたのだ

何気なしに笙子はそれを拾って、目の高さまで持ち上げてじっと眺めてみた

 

レースで縁取られた、いかにも高級そうなハンカチだった

誰かが落としたのだろうか

どこかに名前が書いてあるのではないかと見てみたが、しかし名前は書いてなかった

代わりに何か刺繍がされていたけど、アルファベットだったため笙子にはさっぱり判らない

 

結局先生には届けず家に持ち帰って、笙子はその日ずっと拾ったハンカチを眺めていた

誰のものかも判らないハンカチだけど、しかし何故だか無性に気になった

このハンカチの持ち主はこれを落としてしまって今ごろ困っているのではないだろうか

そう思うと少しだけ複雑な気持ちになってくる

 

「笙子、何をそんなに熱心に見てるの」

 

背後から突然声をかけられて、笙子は驚いて振り返った

見上げれば、姉の克美が呆れ気味に笙子を見下ろしていた

そんなもの眺めてる暇があったら本の1冊でも読みなさいよ、と言わんばかりの視線で

 

「うちにそんなハンカチ、あったっけ?」

 

「ううん、ひろったんだけど・・・」

 

「ふーん」

 

克美は興味無さげに言うと、笙子の手からひょいとハンカチを取り上げる

 

「何これ、刺繍がしてある。『YUMI OGASAWARA』・・・『ユミ オガサワラ』」

 

 

 

 

ふむ、と克美は顎に手を当てて考えるような素振りをする

 

「小笠原。小笠原って、あの小笠原?・・・まさかね」

 

一人で勝手に納得して笙子にハンカチを返すと、克美はさっと踵を返した

そのまま振り返らず、どこか投げやりな口調で笙子に言う

 

「何だか知らないけど、早くそれ返してあげなさいよ。そのユミって子、困ってるかもしれないから」

 

「・・・うん」

 

克美が部屋を出て行った後もじっと笙子はハンカチを見ていた

とんでもない物を拾ってしまったと思った

まさか憧れの祐巳のハンカチだったなんて

 

どうしよう

笙子は迷った

このまま祐巳に内緒で貰ってしまおうか

宝物の写真や手紙よりもずっと貴重なものになるに違いない

何しろこのハンカチは祐巳の持ち物なんだから

 

一瞬笙子はそう思ったが、しかしすぐに考えを改めた

やっぱり返そう、内緒で持っていても何だか気まずいし

それにこれを返すときに、祐巳とお話できるかもしれない

これがきっかけで、祐巳とお近づきになれるかもしれないのだ

 

そうだ、やっぱりそうしよう

ちゃんと返して、祐巳に自分の顔と名前を覚えてもらうのだ

祐巳と楽しそうに会話をする自分の姿を思い浮かべると、笙子の心は躍った

 

 

 

 

そして翌日

笙子はポケットの中に、いつもの自分のハンカチと、もう一つ祐巳のハンカチを入れて家を出た

朝の陽光が地上に柔らかく降り注ぎ、木々の緑も眩しいくらい鮮やかに映えていた

まるで今日という日を神様が祝福してくれているようだ

 

笙子は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、そっと制服のポケットに手を当てて感触を確かめる

ハンカチはちゃんと洗濯をしてアイロンまでかけてもらった

準備は万端だ

 

今日は祐巳にハンカチを返しに行くのだ

笙子は祐巳にハンカチを返して、そして祐巳は「ありがとう」と微笑んでくれるのだ

何度も楽しい空想を思い描いては、笙子は幸せな気分に自分を浸らせた

もしかしたら、今日は人生でも特別な日になるかもしれない

 

いつもはバスで幼稚舎に向かうが、今日は親にお願いして車で送ってもらった

いつもより早く幼稚舎に行って、祐巳がやって来るのを待ち伏せしようと思ったからだ

普段は由乃たちがくっ付いているけど、この時だけは祐巳は一人だった

ハンカチを返すチャンスはこの時しかない

はやる心を抑えながら、笙子は祐巳が来るのを待つ

 

しばらくすると黒塗りの車がやって来て、そして中から人が2人降りてきた

『紅薔薇のつぼみ』こと小笠原祥子と、その妹の祐巳だ

ついに運命の瞬間がやってきたと、笙子の全身を緊張が駆け巡った

 

祐巳は祥子と別れると、ツインテールをぴょこぴょこ揺らしながらのんびり歩き出した

笙子は隠れるようにして祐巳の後を付けて行く

しばらくは言い出すタイミングが掴めず、笙子はただ祐巳を後ろを歩いているだけだったけど

しかし幼稚舎の敷地内に入ったところで、ついに笙子は決心した

背後から叫ぶように、笙子は祐巳に声をかけた

 

「あ、あの、ゆみしゃま!」

 

「へ?」

 

祐巳が振り返った

初めて間近でまっすぐ見つめられて、笙子は体温が一気に上昇していくのを感じる

 

「なに?」

 

「あ、あの、わたし」

 

何とか絞り出した声は上ずっていた

もう笙子の頭の中は真っ白になっていて、完全に自分を制御する術を失っていた

 

「どうしたの?」

 

「わたし、ゆみしゃまのハンカチをひろって、それで・・・」

 

言いながら乱暴にポケットに手を突っ込んで、笙子は必死に祐巳のハンカチを探り当てようとした

が、焦っているためか、どうにもハンカチが上手く掴めない

早くしなければ、と思うと余計に上手くいかない

悪循環だった

 

事前に何度も頭の中でハンカチを返す練習をしてきた

シミュレーションを繰り返して、そしていつもそれは成功していた

それなのにいざ本番となったら体が思い通りに動かない

本当だったら今ごろちゃんとハンカチを返して、祐巳が自分に微笑んでいてくれているはずだったのに

 

「ハンカチをかえしにきました、それで、えっと・・・ごめんなさい!」

 

どうにかハンカチを引っ張り出すと、笙子は押し付けるように祐巳に渡した

祐巳は驚いて言葉が出ないようだった

その微妙な沈黙が何だか気まずくなって、笙子は逃げるようにその場から走り去る

あまりにも自分が情けなくて、もう涙が止まらなかった

 

 

 

 

涙で歪む世界の中を笙子は無我夢中で突っ切っていく

すれ違った人は何事かと驚いた顔をしたけど、声をかける間もなく笙子は走っていってしまった

 

笙子が駆け込んだのは普段誰もやって来ない校舎裏だった

そこは陽が当たらなくて空気も何だかじめじめしていたけど、ここが自分にはお似合いだと笙子は思った

それに辺りを包む不気味な静寂も、何だか今は優しく感じられる

笙子はその場にしゃがみ込むと、ぼろぼろと流れる涙を押し止めようとポケットからハンカチを取り出した

 

そこで笙子は重大なミスに気がついて、愕然とした

自分のポケットに入っていたのは、さっき祐巳に返したと思っていた白いハンカチだった

焦燥のあまり笙子は自分のハンカチを祐巳に渡してしまったのである

 

それを知った笙子の目からまた新しい涙が流れ出てきた

どうしようもなく不器用な自分が嫌になった

どうしてこんなにも上手くいかないんだろう

せっかく祐巳とお近づきになれるチャンスだったのに

薄暗い校舎裏に、笙子の嗚咽が静かに響いた

 

 

「・・・しょうこちゃん?」

 

 

顔を両手で覆いながら泣いていた笙子に、優しく声がかけられる

笙子はくしゃくしゃになった泣き顔を上げて声の主を確認すると、驚きの表情に変わった

祐巳だった

 

「ゆ、ゆみしゃま!?」

 

慌てて目をごしごしこすって涙を拭う

自分の情けない姿を見られた事が、無性に恥ずかしく感じられた

 

「しょうこちゃん、どうしてないてるの?」

 

「・・・・・・ゆみしゃま、どうしてわたしのなまえをしってるんですか?」

 

「ハンカチにかいてあったから」

 

ほら、と祐巳は笙子の目の前でハンカチを広げて見せる

 

「・・・ごめんなしゃい。わたし、ハンカチまちがえてました」

 

ばつが悪そうな表情で俯いたまま、笙子はハンカチを差し出す

しかし祐巳はそれを受け取ろうともせずに、そのまま笙子に訊ねた

 

「しょうこちゃん、いつもそとからみてたよね」

 

笙子は弾かれたように顔を上げる

驚いた

まさか祐巳が自分の存在に気づいていたなんて、笙子は夢にも思っていなかったから

 

「どうして、こっちにこなかったの?」

 

「だ、だって・・・わたしとゆみしゃまは、おともだちじゃないから」

 

「おともだちじゃない・・・う〜ん、そうかぁ」

 

どこか納得の行かない様子で、祐巳は言った

考え込むように難しい顔をしていたが、しばらくすると突然ぱっと目を輝かせた

 

「そうだ!」

 

何か良い事を思いついたのか、祐巳は嬉しそうに声を上げる

 

「しょうこちゃん、そのハンカチあげる」

 

「え!?」

 

祐巳が指差したのは、笙子の手のひらに置かれている祐巳の白いハンカチ

笙子は信じられないといった表情で、祐巳の顔をハンカチを交互に見やった

 

「い、いいんでしゅか?」

 

「そのかわり、わたしはこれもらうね」

 

にんまり笑いながら祐巳は笙子のハンカチをポケットの中にしまい込む

意図がわからずに戸惑う笙子に、祐巳はにっこり微笑みかけた

 

「これで、わたしとしょうこちゃんはおともだちだね」

 

「おともだち?わたしと、ゆみしゃまが?」

 

「うん。だって、しょうこちゃんとなかよくなりたいから、わたしのものあげたんだよ。

わたしも、しょうこちゃんのものもらったから。だからおともだち」

 

それとも嫌だった?と聞かれて、笙子は首をぶんぶんと横に振る

 

「じゃあ、これからはおともだちだね。よろしくね、しょうこちゃん」

 

祐巳が差し出した手を、笙子はまだ夢でも見ているような表情でそっと握り返した

温かかった

幸せが祐巳の手から自分の手に伝わってくるのが笙子にははっきり判った

そして、これは夢ではないという事も

 

笙子は空いている方の手でもう一度涙を拭うと、今度こそ無邪気に笑って見せる

もう、これ以上涙が溢れ出てくることは無かった

 

「はい、ゆみしゃま」

 

涙を拭いた後の笙子の笑顔は、さっきまでの沈んだ表情が嘘だと思うくらい底抜けに明るかった

 

 

 

 

こうして笙子の宝物はまた一つ増えて、そして新たに祐巳との関係がスタートした

ちなみに10年後、これがきっかけで笙子は祐巳の妹レースに参戦するわけだけれど

それはまた別のお話である

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