「・・・あれ、江利子?」

 

ある日の放課後

聖は教室で熱心に本を読んでいる江利子を見つけた

他に誰も居ない放課後の教室で読書に勤しむ乙女の姿

それはもう絵になる光景である

 

「江利・・・」

 

聖は声をかけようとしたけど止めておいた

江利子が熱心に本を読んでいるから

 

これは江利子の邪魔をしては悪いとかそういう事ではない

江利子があまりにも熱心すぎるのだ

さらに付け加えれば目が輝いている

あの無気力な江利子がこんなに一生懸命になるなんて

これはきっとトラブルの前兆に違いない

 

触らぬ神に祟りなし

聖は江利子に感づかれないよう、そっとその場を離れたのだった

 

 

聖が去ってから数分後

江利子は静かに本を閉じると長く息を吐き出しながら天を仰ぐ

 

「ふ、ふふ、ふふふふふ」

 

そのままの姿勢で不気味に笑う江利子

傍から見ればただの危ない人にしか見えなかった

 

「祥子はどんな反応をするかしら・・・・・・楽しみね」

 

そう呟くと江利子は目を爛々と輝かせて教室を後にした

後に残されたのは江利子が先ほどまで熱心に読んでいた本だけだ

ちなみにその本のタイトルは

 

『誰でもできる催眠術』

 

 

 

 

「ごきげんよう、祐巳ちゃん」

 

「あ、えりこさま」

 

今日も今日とて幼稚舎で祥子が迎えにくるのを待っていた祐巳

江利子がここに来るのは珍しい

思わぬ来訪者に祐巳も頬を綻ばせた

 

「それと由乃ちゃん、瞳子ちゃん、乃梨子ちゃん、可南子ちゃんも。ごきげんよう」

 

「・・・・・・・・・ごきげんよう」

 

磁石のように祐巳にくっついているいつもの4人は表情を険しくしたけど

でもそれだけだ、噛み付くような事はしない

だって一枚も二枚も上手の江利子に敵うはずも無いから

江利子と志摩子にだけは逆らってはいけないと言うのが彼女たちの暗黙のルールなのだ

 

「祐巳ちゃん、ちょっと良いかしら」

 

「?うん」

 

江利子はそう言って祐巳を裏庭へと連れ出す

手を出そうにも出せない由乃たちは苦い表情で2人を見送ったのだった

 

 

 

 

「えりこさま、こんなところでなにするの?」

 

いきなり裏庭に連れて来られて不思議がる祐巳

江利子はにっこり笑うと、おもむろにポケットからライターを取り出した

そして自らも屈んで祐巳の視点の高さに合わせると

 

「はい祐巳ちゃん、このライターの火をよーく見て」

 

祐巳の目の前でライターの火をつけた

 

「うん」

 

祐巳は目の前でゆっくり揺らめくライターの火にじっと見入る

江利子はそれを確認すると静かに口を開く

 

「貴女は目がライターの火から離れない・・・・・・・・・

だんだんと眩しくなって・・・目があけるのが辛くなってきたわ・・・

ほら祐巳ちゃん、何だか段々気持ち良くなってきたわよ・・・・・・」

 

声のトーンを落として呪文のように呟く江利子

それに合わせて祐巳の目も何だかとろんとしてきた

その様子を見て江利子は満足そうに微笑えんで

そしてぼんやりしている祐巳に言い聞かせるように、一言一言に力を込めて言葉を紡ぎ始めた

 

「良い?祐巳ちゃん。貴女の名前は・・・・・・そして私の・・・・・・・・・」

 

「・・・・・・うん」

 

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

 

「やっぱり最新の地雷探知機は違うわね・・・精度が良いわ」

 

仕事を終えて幼稚舎に祐巳を迎えに来た祥子

片手には地雷探知機を持っている

何故かって志摩子と乃梨子が幼稚舎に本当に地雷を仕掛けてきたから

こんな物を持ち歩く女子高生なんて世界中のどこを探しても祥子だけだろうけど

でも祐巳に会うためにはそんな事は気にしてられなかった

 

 

「祐巳、迎えに来たわよ」

 

 

いつも通り優雅に登場する祥子

由乃たちと遊んでいた祐巳は名前を呼ばれて振り返ったけど

しかし何だか様子がおかしい

祥子の姿を見ても嬉しそうな表情を浮かべるでも無く、ただきょとんとしているのだ

 

「・・・祐巳?」

 

普段と違う祐巳の反応にさすがの祥子も戸惑う

いつもだったら子犬のようにぱたぱたと駆け寄ってくるんだけど

今日の祐巳は不思議な生き物でも見るかのような目で祥子を見ていた

 

「どうかして?祐巳」

 

「・・・だれ?」

 

「・・・え?」

 

祐巳の口から出てきた思いがけない言葉に祥子は固まる

 

「ゆ、祐巳?」

 

「おねえさん、だれ?」

 

「お、おねえさん?祐巳、冗談にしては笑えないわよ」

 

「・・・えぇっと」

 

「ちょ、ちょっと、祐巳?」

 

 

最初祐巳は冗談で言っていると思っていた祥子だったが

しかし祐巳は本当にわからないというような表情をしている

祐巳は考えている事がストレートに顔に出てくる

という事は本当に祥子の事がわからないのだ

 

何でこんな事になっているのだろうとか

一体祐巳に何があったのだろうとか

そんな疑問が祥子の頭をよぎったけどすぐにどこかへ吹き飛んでしまった

祐巳が自分の事を覚えていないという事実はそれくらい祥子にとってショックだった

 

 

「祐巳、私の名前を言って頂戴」

 

縋るように祥子が聞く

 

「えーっと・・・・・・」

 

「ゆ、祐巳。本当に私の名前、わからないの?」

 

「うん、しらない」

 

「ほら、貴女のお姉さまの」

 

「ううん、しらない」

 

「ほら、一緒にイチゴ狩りに行った」

 

「ううん、しらない」

 

「ほら、貴女がラブレターを贈った」

 

「ううん、しらない」

 

「ほら・・・ええと、10年後に貴女と一緒に夜の生活を」

 

「ううん、しらない」

 

「じゃあ祐巳、この子たちの名前は?」

 

「よしのさん、とうこちゃん、かなこちゃん、のりこちゃん」

 

「そっちはわかるのにどうして私の名前はわからないの・・・」

 

 

祥子は凹んだ

それはもう見ていて哀れなくらいに

あのプライドが高くて気高い祥子とは思えないくらいに落ち込んだ

 

しかしそんな祥子を見ても祐巳は相変わらず

本当にわからないとばかりに首を傾げるだけだった

 

 

「うぅ・・・祐巳ぃ〜・・・2人の思い出はどこに行ってしまったの・・・」

 

「あら、祥子?」

 

がっくりうな垂れる祥子の背後から声が響く

祥子がゆっくり振り返るとそこには

 

「・・・黄薔薇さま?」

 

江利子がお菓子の詰まったビニール袋を片手に立っていた

思わぬ人物の登場に祥子も怪訝な表情を浮かべる

 

「どうして貴女がこんなところに」

 

「おねえさま!」

 

「え?」

 

祥子が驚いて振り返るのと祐巳が駆け出したのが同時だった

唖然としている祥子の横を祐巳は駆け抜けて

そしてあろう事か江利子に飛びついてしまった

江利子の事を『おねえさま』と呼びながらそれはもう嬉しそうに

 

「おねえさま、おそい」

 

「ごめんなさいね、祐巳。お菓子を買いに行ってたのよ。ほら」

 

「ちょっと、黄薔薇さま!」

 

江利子と祐巳の仲睦まじい光景に絶えられなくなって祥子がヒステリックに叫ぶ

江利子は視線を祐巳から祥子に移すと口の端を上げてにやりと笑った

まるでしてやったりと言わんばかりに

それがますます祥子の神経を逆撫でした

 

「何かしら、祥子?」

 

「何かしら、ですって?これは一体どういうことですか。

どうして祐巳が黄薔薇さまの事を『お姉さま』と」

 

「どうもなにも」

 

江利子はふっと笑うと、これ見よがしに祐巳を後ろから抱きしめる

 

「私たちは姉妹だもの。ね、祐巳」

 

「うん」

 

「な、何ですって!?」

 

 

実は江利子、ライターを使った催眠術で祐巳にとんでもない事を吹き込んでしまった

祐巳の姉は江利子である、と

その時に祐巳の中の祥子の部分だけ綺麗さっぱり抜け落ちてしまったのだ

付け加えれば祐巳は今自分の名前を『鳥居祐巳』だと思っているし

また、自分には江利子の他にも3人の兄がいるとも思い込んでいる

 

祐巳は江利子の催眠術によってそっくり記憶を塗り替えられてしまった

言うなれば『鳥居さんちの祐巳ちゃん』状態である

 

 

「一体どういうことですか!」

 

「あら祥子、そんな恐い顔しないでよ」

 

「おねえさま、あのひとこわい・・・」

 

「ほら、祐巳も恐がっているじゃない」

 

「ゆ、祐巳ぃ・・・」

 

祐巳に恐いと言われてがっくり肩を落とす祥子

祐巳はそんな祥子を指差して江利子に訊ねる

 

「おねえさま、あのひと、だれ?」

 

「あの方は小笠原祥子さまよ。『祥子さま』、と呼んで差し上げて」

 

「うん。ごきげんよう、さちこさま」

 

「ちょ、ちょっと黄薔薇さま、祐巳にそんな風に呼ばせないでください」

 

今更『祥子さま』だなんて

それでは祐巳が小笠原家に来た当初の頃のようではないか

まだ他人行儀でよそよそしかったあの頃

またそんな関係に戻ってしまうなんて考えただけでもぞっとする

 

「仕方ないわね・・・じゃあ祐巳、あの方を『ロサ・キネンシス・アン・ブウトン』と呼んであげて」

 

「余計他人行儀じゃないですか!!」

 

「ごきげんよう、ロ、ロサ・・・キネン・・・シス、アン、ブウトン?」

 

「祐巳も本当に呼ばないで」

 

「本当に注文の多い子ね・・・」

 

ふぅ、と困ったように江利子がため息を吐く

 

「誰のせいだと思っているんですか」

 

「じゃあ、『ヒステリー女』とか『世間知らず』とか『あまのじゃく』とか」

 

「全部悪口じゃない!」

 

「ごきげんよう、ヒステリーおんなさま、せけんしらずさま、あまのじゃくさま」

 

「祐巳、だから本当に呼ばないで」



祥子は眩暈を感じた

ロクでも無い名前を教える江利子も問題だが、それを正確にリピートしてくる祐巳も祐巳だ

ひょっとしてわざとやっているんじゃないだろうか

 

 

結局

このまま続けてもまともに呼んでくれそうに無いので『祥子お姉さま』で妥協した

一応『お姉さま』は付いているけれど

しかしやっぱりどこか違和感を感じる祥子であった

 

もちろん今の祐巳にとって『お姉さま』は江利子のわけで

『祥子さま』だろうと『祥子お姉さま』だろうと祐巳にはアウトオブ眼中の存在に過ぎなかった

さらに江利子が祐巳にかけた催眠術は数日間続き

その間祐巳は鳥居家で生活し、祥子は祐巳の居ない部屋で一人寂しい時間を過ごしたのだった

 

 

 

 

そして

ようやく催眠術が解けて祐巳が小笠原家に帰ってきた

祐巳は祥子の顔を見るとぱっと顔を輝かせて

そして祥子の元に駆け寄ると大きな声で挨拶をした

 

 

「ごきげんよう、ヒステリーおんなさま・・・・・・・・・あれ?」

 

 

「・・・・・・・・・」

 

 

どうやら当分は催眠術の後遺症が残りそうである

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