彩子はちらりとカレンダーに目をやる

今日の日付のところは、赤いサインペンで丸く囲ってある

今日で間違いない、と何度も確認すると、今度は外へと視線を移した

もうすぐ大事な孫たちが車に乗ってここへとやって来るはずだ

それが待ち遠しくて、彩子は少女のように心を躍らせた

 

 

 

 

 

随分と生き長らえてしまった、というのが正直なところだった

例えば、同窓会で皆が集まった時に、そう強く思う

 

そこでは未来の話より、過去の話の方が圧倒的に多かった

かつての思い出に思いを馳せて、当時を皆で懐かしがるのだ

 

零れ落ちた記憶を皆で必死に拾い集めた

心の抜け落ちた部分をお互いに埋め合った

そうする事で皆は、自分自身をどうにか繋ぎとめている

もう未来に目を向けるほど、私たちに時間は残されていない

 

同窓会の回数を重ねるごとに人数は減っていく

あの人は先日お亡くなりになったわ、と言われてももう驚きはしない

次に居なくなるのが自分自身でも不思議ではないのだ

そう思うと私は素直にその事実を受け止める事ができた

 

いつ自分の番が来るのだろうか

漠然とそう思っていたが、しかし、なかなか順番は回ってこなかった

そうしている間にも1人、2人と友人はこの世を去っていく

気が付けば、周りには私を含めた数人しかもう残っていなかった

 

辛かった

友人たちは天に召されていくのに、自分だけはまだ現世に取り残されている

本当に辛かったのは肉体の衰えではなく、積み重ねてきた記憶の重みだ

思い出は、あまりにも綺麗すぎた

その重みに耐え切れなくなったある日、ついに私は倒れた

 

ついに自分の番がやってきたのだ

私は病室のベッドに横たわりながら、そう思った

運命に抵抗する気は無い

むしろ死を受け入れる事によって色んな事から解放されると思うと、嬉しかった

 

しかしただ一つだけ、心残りがあった

かつての高校時代の、大事な親友の事だ

もうかれこれ何十年も会っていない

せめて彼女にさよならの挨拶をしてからこの世を去りたかったけど、それは難しそうだった

なにしろ彼女の消息は未だに掴めていないのだ

今、どこで何をしているのかもわからない

いや、もしかしたら既にこの世には居ないのかもしれない

その思いは私の心に深く影を落としたが、しかし自分ももうすぐその場所へ行くのだと思うと、気が楽になった

 

もう人生にしがみつく事はない

人生に執着する理由が無いから

そんな日々を送っていたある日の事だ

あの子は私の前に現れた

 

「はじめまして、おがさわらゆみです」

 

ちょっと緊張した面持ちで、祐巳ちゃんは私に挨拶をした

今でもはっきりと覚えている

思い出すと、自然に頬が綻んでしまう

隣で微笑んでいた祥子さんの顔にはこう書いてあった

 

『私の自慢の妹です』と

 

以前の祥子さんとは明らかに違っていた

あの頑なな祥子さんの心を溶かしたのは、きっと祐巳ちゃんに違いなかった

こんなに優しく微笑む祥子さんは今まで見た事が無かったからだ

 

不思議な子だった

自分も辛い過去を背負っているはずなのに

それなのに、祐巳ちゃんは周りの人々を明るく照らすのだ

私も例外では無い

祐巳ちゃんが成長していく姿をこの目で見届けたい

その思いは私の心の中に強く根を張って、希望を芽生えさせた

 

こうして、心残りがもう一つ増えてしまった

このままでは死んでも死にきれない

だからもう少し頑張ってみようと思った

あの子は、私の希望なのだ

 

 

 

 

 

彩子はそっと瞼を閉じて、ある光景を思い描く

成長した祐巳が真っ白なウェディングドレスに身を包んで、皆に祝福されている姿

幸せな表情を一杯に浮かべて、人生の伴侶に寄り添っている姿

それを見届ける事が、彩子の人生最後の仕事に思えた

 

 

ふいにドアをノックする音が部屋に響いて、彩子は静かに目を開く

 

「ごきげんよう、お祖母さま」

 

やって来たのは、そう挨拶をしながら部屋へと足を踏み入れる祥子と

 

「ごきげんよう、おばあさま」

 

つい今しがた彩子が想像していた姿より、まだ随分と幼い祐巳だった

 

「体調の方は如何でしょうか」

 

祥子が訊ねると、彩子はふんわりと微笑む

生気に満ちた、生きようとする者の目だった

 

「お陰さまで、とても順調よ。先生もびっくりするくらいに」

 

彩子は視線を祐巳に向けると、ゆっくりと手招きをする

祐巳は嬉しそうに、小走りで駆け寄った

 

「祐巳ちゃん、大きくなったわね」

 

「ほんとうに?」

 

「本当よ。会うたびに大きくなっていくから、いつも楽しみだわ」

 

そう言って優しく祐巳の頭を撫でる

祐巳と触れ合う事で、そこから気力が自分自身に流れ込んでくる気がした

 

「おばあさま、わたし、ピアノのれんしゅうしてるんだよ」

 

「あら、それは是非聴いてみたいわね」

 

「うん。だからはやくげんきになって、たいいんしてね」

 

彩子は顔を綻ばせる

祐巳と会う度に、こうして次々と生きる理由が生まれるのだ

約束を守るために、まだこの世を去るわけには行かなかった

 

「早く祐巳ちゃんの花嫁姿を見たいわね」

 

彩子がそう言うと、祐巳は無邪気に笑う

 

「あと10ねんしたら、みせられるとおもうよ」

 

「・・・え?」

 

彩子は耳を疑った

後10年とは随分早い

法律では女性は16歳になると結婚できるが、祐巳は16歳で結婚するつもりなのだろうか

しかし祐巳は、当たり前のような表情をしている

 

彩子の頭を、一つの考えがよぎる

それはあまり考えたくない可能性だった

彩子はそっと祐巳の両肩に手を置いて、荒れ狂う心を悟られないように訊ねる

 

「・・・祐巳ちゃん?もしかして、祐巳ちゃんには許婚の方がいらっしゃるのかしら」

 

「うん。せいさまと」

 

「・・・聖さま?」

 

初めて聞く名前である

彩子が視線を祥子に向けると、祥子は険しい表情を浮かべていた

 

「・・・確かに約束したそうです。祐巳はあまり良く判っていないみたいですが」

 

「・・・・・・・・・」

 

彩子は溜め息を吐いて、天を仰ぐ

祐巳は素直な子だ

気をつけなければ、簡単に騙されてしまうかもしれない

こんな風に、いつの間にか婚約させられている事もあるのだ

 

彩子は目の前の祐巳へと視線を移すと、心の中で固く誓う

 

この手で祐巳を狙う不埒な輩から守るのだ、と

 

こうして彩子の中に、また一つ生きる理由が生まれたのだった

 

 

 

数日後

聖はやつれた顔で学校に登校してきた

 

曰く

 

「薙刀を持ったお婆さんに追い掛け回された・・・」

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